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私のお墓はできるのだろうか

私が好きなプロの作家さんのエッセイは、過剰な修飾語もエモい表現もほとんどない。
そのキレのある文章は、私の心にすっと入って、とらえて離さない。読むたびに、新たな発見がある。何かにつまづいたときには、そっと背中をさすってくれて、うつむいた顔を上げてくれる。何度食べても飽きない、栄養がたっぷり詰まったお味噌汁や煮物のようだ。

文章を書いていると、やたら描写が細かくなりすぎたり、修飾語や喩えをつけて文章を飾り立てたくなったりする。
己をエモい人間に見せたい意図が見え隠れする文章は、胸やけしそうなほど重くて読みづらく、二度と読み返すことはない。

今月はじめ、作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなったそうだ。99歳。
昨日の日曜日記で、彼女の本を久しぶりに読んだことを書いた)

亡くなった日からずっと、マスコミ各社が追悼特集を組んでいる。
その中で彼女の最近のエッセイを読んだ。


丁寧な言葉で、無駄な表現が一切なく、時系列に淡々と闘病の記録や回想が綴られていた。今まさに目の前にいて、話しているような新鮮さと、勢いがあった。

夫と娘を捨て、夫の教え子と出奔した彼女に、父親は「人の道を外れた以上、鬼になれ」と言われたそうだ。そして、彼女は本当に「小説の鬼」になった。

さすがとか、すばらしいとか、そういう簡単でいい加減な言葉では言い表せない。壮絶な体験と膨大な知識量と、書くことへの執念によって生み出される文章は水の如く透明。なのに、荒波のように強かった。

今朝の地元新聞に、生前に彼女と親交のあった方が、彼女との思い出を寄稿していた。その中に瀬戸内寂聴の言葉があった。

死後も誰かの記憶に残ることこそ、何よりのお墓です

徳島新聞 2021.11.30

瀬戸内寂聴という「人」は消えてしまったが、彼女の書いた「作品」は永遠に人々の心に残るだろう。
そして、彼女と親交を深めた人々は、その「思い出」を自分の心に刻んで、明日を生きていくのだろう。

小手先の修飾語で「いい文章」なんて思う私は、小者も小者、虫みたいなもんだ。でも、一寸の虫にも五分の魂、瀬戸内寂聴の足元にも及ばないが、書きたい気持ちがある。
わたしが憧れる作家さんたちに少しでも近づきたい。
それには、淡々と力強く、自分に負けず、優しさを身につけて、より良い人間に、より良い言葉を持たねばならない。

なのに、全然足りない。
優しさのかけらもなく、見栄と承認欲求ばかり大きくて、気づけば、周りには誰もいない。
頑張っているつもりだけれど、全然足りない。

寄稿文はこう締めくくられている。

それこそ、お墓は全国に数えきれないほどあるだろう

私のお墓はどこにできるのだろうか。

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