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鳥居の前で頭を下げる人になりたい

出張中の空いた時間に、ビジネス街にある神社に寄った。

同行者と行動する出張は、どんなにいい方とご一緒しても、やはりどこか慌ただしく、気遣いも多くて、肩がこる。夕食のあと、ホテルの部屋に戻って、一人になる時間を待ちわびていたのに、部屋に戻った途端、酔いと疲れで眠ってしまった。

目覚めたら、晴れて気持ちのいい朝だった。
持ってきたUNIQLOのライトダウンジャケットを羽織って、外に飛び出した。

早朝のビジネス街は、まだ人通りも少なく、新鮮な空気に満ちていた。
神社までの数百メートルを歩く。
緊急事態宣言が解除されたとはいえ、数年前に来たときのような活気には程遠い。

しばらく歩くと、コンクリート造りの大きな鳥居が見えてきた。

前を歩いていたビジネスマンが、神社の入り口で立ち止まった。鳥居のほうへ向きを変え、鳥居とその向こうへぱっと顔を上げてから、腰を直角に曲げ礼をした。そして鳥居をくぐって入っていった。

その姿に感じ入った。

ここからは想像だけれど、多分、彼は敬虔な神道の信者ではないと思う。クリスマスや結婚式にはキリスト教、お葬式には仏教、お正月には神道と日本人らしい感覚で暮らしている人だと思う。

私がいいなと思ったのは、鳥居の向こうの見えないものに対してもこうべを垂れる、その心だ。

私など、1分1秒でも早く本殿の神様にたどり着こうと、鳥居のど真ん中をずかずかと突っ切り、わずかなお賽銭を放り込んで、我ここにありとばかりに鐘を鳴らし、パンパン手を叩いて、両手に余るほどの願いを詰め込んで手を合わせ、そのときだけ頭を下げる。礼も敬意もあったもんじゃない。煩悩の塊。

彼を見て、そんな自分を反省した。

彼の鳥居へのお辞儀は、その神社の神様はもちろん、この世界全体へのお辞儀のような気がした。
見えないもの、世界全体に素直に頭を下げられる謙虚さに感じ入ったのだ。
あるかどうかも分からないものに、これほど素直に頭を下げられる彼なら、周りにいる人へ謙虚に頭を下げることなど、当たり前のことなんだろう。きっと仕事もうまくいっているんじゃないだろうか。

以前、書店で「成功している人は神社へいく」という内容の本を見かけたことがあったけど、そういうことなのかもしれない。
見えないものや、あるかどうか分からないものにさえ気を配ることができる、そんな心の余裕や寛容さ、腰の低さが、人を惹きつけるんじゃないだろうか。

隣にいる同行者にすら気を配ることができず、そのくせ気疲れして、すぐに一人になりたくなってしまうような私は、まだまだ修行が足りないようだ。

ビジネスマンの後に続いて、鳥居の前で足をとめ、50度くらいの微妙なお辞儀をしてみる。少しだけ、世界が優しくなった気がした。



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