”本当の自分”という言葉への違和感
「本当の自分に出会う3日間」
よくスピリチュアルなセミナーとかのタイトルにあるやつ(笑)
スピリチュアルな文脈ではなくても、最近はコーチングとか本のタイトルでも多いなと思う。
私はこの「本当の自分」という単語がすごく嫌いで
なんだか違和感をおぼえる。
仮に今、生きている私が"本当の自分"じゃなかったとしたら、
じゃあこの私は"ニセモノ"なのでしょか?
今まで生きていた云十年は私はニセモノのまま生きていたというのか。
アリャマー。
そう思うと、なんだか胸の底からジリジリとした怒りのようなものが湧いてくる。
さまざまな人が”本当の自分”と口にする時、
それはその人独自の文脈で使っているのだから、みんながみんな同じ意味で使っているのではないと思う。
しかし、少なくとも私は"本当の自分"という言葉を聞いた時、
その言葉の裏にある”本当の自分じゃない"つまり”ニセモノの自分”ってなんなのだろうと考えてしまう。
今の自分がきらい・苦しい・変えたい・なんだかモヤモヤすると思うなら、それは今を生きている自分は”ニセモノよ”というサインなのだろうか?
このことにずっとモヤモヤしていた私。
プロセスワーク(※プロセス指向心理学を用いたワーク)をしてみたところ、今まで感じていた「本当の自分」という概念に対して新しい見方が生まれた。
新しい見方はこうだ。
今まで私は、本当の自分を見つけるとは、「今のニセモノの自分を否定して、今にない自分を見つけること」だと思っていた。
けれど、プロセスワークで感じ取ったのは、本当の自分を見つけるとは「今、自分だ」と思っている自己からどんどんと枠を広げていくこと。
「本当の自分」とは今という自分を含みつつも、限りなく広がっていく自己であった。
図にするとこんな感じ。
このような捉え方をすると、「ホゲ〜」としている私も”本当の自分”の一部である。
決して、ニセモノなんかじゃなくて
怒っている自分も、本当の自分が見つからないと嘆く自分も、
そこにしがみつく自分も”本当の自分"の一部である。
本当の自分というのは固定した何かではなくただただ、際限なく広がっていくものであり、私達はきっとその際限がないものに、あえて枠を設けて”自分”と言っているのではないだろうか。
今日、バスで席を譲った優しさも本当のあなただし
家族にイライラして優しくできなかったのも本当のあなただし
死ぬほど誰かを憎んでもそれも本当のあなただし
どんな部分もきっと”本当”なのだと思う
その枠が自分のペースと巡り合わせとで少しづつ広がっていくことが、”生”そのものである気もする。
だから私は「3日間で本当の自分を見つけるセミナー」があるとしたら、
ここで見つけた自分は決して”本当の自分”ではないと思う。
セミナーで1つでも新しい自己を発見したならば、
それは、まぁ意味のあることだと思う。
でも、それは本当の自分の"全体性"ではなく、あくまで部分である。
(仮にワンネス的な体験をしたとしても)それですら、全体性という中での部分かもしれない。
そう考えていくと、本当の自分は今生きている自分以外の何者でもないし、むやみに今の自分をニセモノと思わない。
「本当の自分がここにありますよ」とまことしやかに誘ってくるあらゆるものに対して「本当の自分をただ広げ、発見していくためのただの道具にすぎない」とわきまえた上で、接することができそうだ。
サポート頂いたら嬉しくてエクストリーム土下座します!!