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【考察ブログ】反出生主義に抗う 『ただしい人類滅亡計画 』より

こんにちは。クロシオです。

『ただしい人類滅亡計画』 品田 遊   氏の本を読みました。

この本に対し、最初は「感想ブログを書きたい!」と思っていたのですが、いざ書いてみると、どうしても感想だけじゃなくて自分の意見も書きたくなってしまう。

…ま!たまにはいっか!それならばいっそガッツリ書いてしまえ!というわけで、この本のテーマ『反出生主義』に挑む、ガッツリ考察ブログです。理屈っぽくて長いよ!レッツゴー!!

【1】感想 『ただしい人類滅亡計画』 ※ネタバレなし

そうは言ってもまずは全体的な感想を少し。あらすじ以上のネタバレはなし。次の章からはネタバレが含まれるので注意してね。

すんっごい読みやすい哲学・道徳の本でした。

異なる主義主張を持つ人間同士が、『人類滅亡をしなくていい理由』を話し合う。その中でも、『反出生主義』という、「人間は産まれない方が良い」という主義をテーマに話は進みます。

話し合いの登場人物は10人と多いですが、あくまで『反出生主義者』を中心に、「それに対して自分はこう思う」「それを含めるとこういう話になるんじゃないか」と進行していくため、全く混乱しませんでした。よくある哲学書、倫理学の教科書などより非常に分かりやすく、読み進めやすい。高校くらいの授業で使って欲しいくらいです。

哲学や道徳の教科書って、「言ってることは合ってる気がするけれど、な~んか違う気がするな~。」ってことが多々出てきます。「極端すぎない?その結論。」みたいな。そういう点に対してもかなりしっかりと踏み込んでいく内容になっており、難しい本に付き物の「モヤモヤ」とした感じが非常に薄く、スッキリ読み終えられる本でした。みんな読もう!


【2】反出生主義に抗う ※以下、ネタバレ注意※

さて、ここからネタバレアリです。以降、『ただしい人類滅亡計画』を読まないと何のことか分からないと思うので、まず読もう!

この本の中では、人類を簡単に滅ぼし得る魔王が登場します。魔王相手に、人類は人類を滅ぼさなくていい、納得のいく理由を魔王に述べなければいけません。

その上、『反出生主義者』という、魔王が居なかろうと人類を滅ぼしかねない主義者が出てきました。ウゼ〜。

私は人類滅亡は嫌だなぁと思うので、出来る限りこの『反出生主義』に抗いつつ、魔王を説得できる理由を考えていこうと思います。

前提として

この本のテーマとなっている『反出生主義』は2種類に分けられます。

①我々の世界の反出生主義
②この本の中、魔王がいる状態での『反出生主義』

これ、分ける意味ある?と思うかも知れませんが、我々の現実世界でもこの『反出生主義』が存在する以上、そちらにも少しは向き合わなければなりません。嫌だもん、人類滅亡。

というわけで、厳密にはこの本には関係無いかも知れませんが、先に現実の反出生主義に対抗してみます。


【3】『反出生主義』に抗う 現実編

魔王の有無って関係ある?と思う方もいるかも知れませんが、割と重要です。その理由は「実現性」です。

正直、我々の生きている現実世界の『反出生主義』は、この実現性の低さからそんなに脅威ではありません。『ただしい人類滅亡計画』の中でもありましたが、そもそも宗教の違いから、この主義を手放しで受け入れる国ばかりではない、というのが一つあります。加えて、理屈としての正しさはあれど、国がそれを主体となって行う事にメリットがありません。

反出生主義者の「段階的に出生率を下げる」方法は、1人1人の去勢手術が一番確実でしょうが、日本であればまず1人あたり50万円程かかる手術となります。去勢対象は、日本の労働可能世代となるでしょうから、およそ6000万人、男女片方だけでも行えれば良しとしても3000万人となります。3000万人×50万円=4.5兆円、実際には全国で行い、性接触の制限、外国人の入出国に伴う去勢管理等、沢山の事を行わねばなりませんから、もっと費用は掛かります。

期間も計算すると100年、200年くらいはかかるのではないでしょうか。『ただしい人類滅亡計画』では、500年を想定していましたが、長くなればなるほど、当然費用は更に高くなっていきます。

全世界の国が、宗教を捨て、自国の費用を負担しつつ、将来の労働力と成り得る存在を諦め、倫理と人権の壁を越え去勢を実行し、100年以上かけて実行することに同意するか?また、確実に実行し得るか?と考えると、非常に難しいことが分かります。

ならば手っ取り早く「地球を一気に爆弾で焼き払ってしまえ」という事であれば、まず「地球上を焼き払える武力を持つ国」が国民全体に説得をしなければなりません。しかし、「早急に爆弾を使おう!」と国民に呼びかけている国は他国から確実に警戒されますし、合意がないままの攻撃は戦争が起きます。人口は無理矢理減らせるかも知れませんが、争いのために爆弾を消費し、反対国に爆撃を阻止される、といった事象は必ず起きますので、確実な方法とは言えません。

…以上のように、我々の住む現実では実現性がとても低いため、あんまり気にしなくていいかな、と私は思います。

とはいえ、実現性の低さだけを伝えても『それでも道徳のために滅亡を目指さねばならない!』と主張する人達は納得しないし止まらないでしょうから、もう一つくらい理由を考えてみます。

「不幸を生まない」の適用範囲

『何でもできる魔王』の居ない現実世界では、例えば生物に対して『過去に遡って、宇宙誕生から無かったことにする』なんて事はできません。

反出生主義の最大理想は『生物の絶滅』ですが、深海から密林の虫一匹までありとあらゆる生物を絶滅させる事は難しいでしょう。そんな訳で、反出生主義者の可能な範囲での最大理想は「人類圏の生物を絶滅させる」である、と言えます。

では、人類圏の生物を可能な限り絶滅させるとしましょう。段階的な出生率の減少と並行して行っていく生物の絶滅作業は、大きな爆弾などは使い辛いと想像できます。それで人類や大きな動物は滅びても、海中や地中の奥深くにいる生物はそのままとなります。そうなると、虫、魚を中心とした生態系が出来上がるでしょう。となると、今まで存在した天敵が居なくなった小さな生物の数は、今以上に増えるのでは無いでしょうか。

例えばアリは、現在でも数兆匹いると考えられています。天敵のいない環境では、アリは数兆を超えて増えていきます。そのアリの人口爆発(アリ口爆発?)によって産まれたアリは、その数だけ死にます。人間よりも短いスパンで、より多く。

反出生主義』の内容に当て嵌めると、その数だけ、【生・不幸・死】の回数が増える事になります。彼らの主張通り、出生そのものを罪とし、その価値を宇宙誕生から未来まで全ての時間に当て嵌めるべき策だとするならば、この『人類が可能な限りでの滅亡』は、出生の数を上げ、罪の数を増やす行為に繋がるのではないでしょうか。

苦痛を受け取る主体ではなく、「罪を増やさない事」そのものを重視する反出生主義にとって、この結果は「人間の絶滅が現状を悪化させた」と言う事になります。

反出生主義の第一人者、デイヴィッド・ベネターは、「ヒトに限らず、他の感覚を持った生物も、まったく生まれてこない方が良かった、つまり絶滅してしまった方が良い」としています。この「感覚を持った生物」の解釈次第では、例えば虫は当て嵌まらない可能性もありますが、同様に人類が絶滅させることが難しいネズミ・蝙蝠のような小動物も全て当て嵌まらないという主張でしょうか。

いずれにしても、「人間の罪はアウトだけど、小動物がその後に罪を増やすのはノーカン!」という主張なのであれば、あまりに都合が良すぎますね。

というわけで、「現代の人類が可能な手段で生物を絶滅させようとすると、かえって罪を増やす」という結果になってしまいます。

ただでさえ実現性低いし、実行しても反出生主義者の思い描く良い結果にならない。こりゃ~絶滅させない方がいいね!!!よかったよかった!!!!!


【4】『反出生主義』に抗う 魔王編 ※ネタバレ注意

では続いて、『ただしい人類滅亡計画』の中の『反出生主義』の話。こちらの方はめっちゃくちゃ手強いです。

先程の現実編では、「人間が可能な手段で実行しようとしても、変わらないか寧ろより悪化する」という理由により阻止をしましたが、魔王がいる場合、この手段では抗えません。ぜーんぶ消せちゃうんだもん。魔王が。

という訳で、別の方向からアプローチをする必要があります。


『反出生主義』も完璧ではない

改めて、今回魔王が求めていたのは何だったのかを確認します。

①「人類を滅ぼすべきか否かを話し合う」
②結論が出たら魔王にその内容を申し出る
③魔王は結論を受け入れ、そのとおりに実行する
④ただし、結論が理を伴わない限り、それを認めない

本の中では魔王は、グレーの言葉に影響され、自分の意志で世界を滅ぼしました。しかし、グレーがあのような主張をしなかった場合、どうなっていたのでしょう。ブラックの『反出生主義』は、人類を滅ぼすに相応しい「理」を伴っていたのでしょうか。

『ただしい人類滅亡計画』の中でも、反出生主義は強力な主張でしたが、完璧な主張ではありませんでした。

私たちが普段から活用している道徳とか倫理というものを、「出生」という特殊な概念にまで適用してしまってもいいのか

例えばこちら。「出生」と「善悪」の関係性は、「出生」が悪いものをこの世に生み出す行為のひとつでありながら、それを「悪い」と感じる主体そのものも同時に生み出してしまう、という『ねじれ』が存在するという話になった際に、オレンジが抱いた疑問です。

これに対しブラックは、この『ねじれ』を認めながらも、「我々が考え、運用してきた善悪という基準以外に、語る言葉を持たない」としています。

ブラックは『反出生主義』を周りに押し付けたいが故、ここの話はこれで終わらせていましたが、この『ねじれ』自体は反出生主義の『理』が完璧ではない事の表れです。どうしてこのようなねじれが生まれるのかを掘り下げていけば、『反出生主義』よりも通る『理』を見つけられるのではないでしょうか。

まず、この『我々が考え、運用してきた善悪という基準』とは、どういったものかを考えていきたいと思います。


スポーツにおける基準

一つ、例を出します。スポーツ、例えばサッカーなんかでは、『手で投げては行けない』という基準、即ちルールが存在します。『オフサイド』といった、細かいルールもあり、それはどの状況でどの位置からか、といった基準もあります。これを破ることはサッカーにおいての『悪』といえます。では、これは何のために存在するのでしょうか?

単純ですが、まず手を使っていいならもうそれは別のゲームですよね。サッカーというゲームの最大の特徴であると言えます。では、ちょっと難しいオフサイドは?これは詳しくはggって頂ければと思いますが、ザックリ言うと「待ち伏せ」を禁止するルールです。

では、これらの基準がなかったどうでしょうか。

手を使っても良いゲームであれば、バスケやラグビーと似たものになるでしょう。オフサイドが無ければ、「あらかじめ相手のゴール近くに選手を待機させて、ロングパスして終わり!」と、ロングパスだらけ、もしくは待ち伏せとその阻止だらけの試合になってしまいます。それだと相手をドリブルで搔い潜り、味方と連携しシュートを打つサッカーの試合は生まれません。

これを考えてみると、サッカーの基準というものは、『サッカーというゲームの個性を強調し、試合を成り立たせるため』に存在していると言えます。この基準があるからこそ、我々はサッカーがどういうゲームかを理解し、何十年にもわたりワールドカップを楽しむ事が出来ていると言えます。


交通ルールという基準

もう一つだけ例を挙げます。交通ルールというものがあります。「この道は、車は時速40kmまで」といった基準も存在します。こちらは何のために存在しているのでしょう?

交通ルールを破り、赤信号を無視して道路を渡ったりすれば事故の元ですよね。しかし、「事故を起こさないようにしたい」ということだけを主張するのであれば、交通ルールなどなくても外に出なければ良いですし、車に乗らなければ良いだけの筈です。(※これは『反出生主義』の主張に近い話ですね。)

ではなぜ交通ルールが存在しているのかというと、『自動車の個性をなるべく尊重しつつ利用するため』にあるのではないでしょうか。安全に配慮しなければ大怪我のリスクがありますが、ある程度のスピードが出なければ車に乗る意味はありませんものね。


善悪という基準

話を戻し、『我々が考え、運用してきた善悪という基準』とはどういうものかを考えます。

先ほど例に挙げた「サッカールール」「交通ルール」は、それぞれがそれぞれの主体である「サッカー」「自動車」の個性を強調しつつ、利用するために存在していました。これらに付随する基準も、『我々が考え、』現在に至るまで『運用されて』います。

では、この善悪という基準の主体は何でしょうか?

まず、善悪という基準は何を守るために定められたものでしょう。これはブラックが散々主張してきたように、『道徳』を守るための基準だと言えます。

では、『道徳』は何の個性を強調しつつ、利用するために存在しているか?これはグレーが、ブラックを批判する際に口に出していました。

社会をつくり維持するための道徳というルールが結果的に社会を衰退させ滅ぼす理由になるという結末に、なにか痛快さを感じて、満たされるものがあるんじゃないの?

ブラック自身もこれを問われ、否定はしなかった点からも「社会をつくり維持するために道徳は存在している、という事で間違いないでしょう。

纏めると、『我々が考え、運用してきた善悪という基準』というものは『社会をつくり、維持するためのもの』であると言えます。


言葉という手段

ここで、『善悪』以外にも、我々が当たり前のように使っている、意思疎通において頼らざるを得ない手段の事を一つ、思い出す必要があります。『言葉』です。

言葉にも当然、基準があり、ルールがあります。もはや身近過ぎて考える事にも違和感がありますが、それぞれの国が考え、運用してきた言葉のルール・基準というものも、善悪と同じように間違いなく社会を作り、維持してきました。

この『言葉』の主体は何でしょうか。これの答えは様々ですが、必ずその先に『それを使う人間』がいますね。言葉によって、それそのものの輪郭を捉え、特徴を浮き彫りにし、我々はその対象の存在を認識してきました。ですので、言葉の主体は『人間が認識できる存在』と言えます。


生まれてしまう『ねじれ』

では、ブラックは反出生主義という主張をするにおいて、『道徳』『言葉』という社会を維持し得る道具を使っているにも関わらず、人類の滅亡という結末に至ってしまう事は、なぜでしょうか。

これまでいくつかの例を挙げていますが、ルールや基準と呼ばれるものは、それを当て嵌める対象、主体の個性を強調し、存続させるために存在していると考えられます。当たり前すぎて忘れていましたが、誰が、存続させるのでしょうか。当然、それらを認識するために『言葉』を使っている我々人間が、です。

では、『反出生主義』。こちらの主義に関しても、一定のルール・基準がある以上、それらを設ける対象があると考えられます。その対象は何でしょうか。ブラックは最後の最後、魔王の前でも堂々と言っていました。「それが道徳として当然の帰結だから」と。つまり、『反出生主義』の基準・ルールの主体は『道徳』です。

本来、『道徳』は人類の個性を強調し、存続していくための『手段』です。しかし『反出生主義』は、そもそもの前提として、人間を主体とした主張ではありません。『道徳』を主体とした主張です。そして人間は道徳を導くための『手段』でしかありません。

この、人類が使用している道具と、道具を使っている使用者の逆転が起きている『ねじれ』が、反出生主義を主張するブラックと、その他の人達との間に生まれる「納得の出来なさ」に繋がっているのではないでしょうか。

「出生」と「善悪」の関係性は、「出生」が悪いものをこの世に生み出す行為のひとつでありながら、それを「悪い」と感じる主体そのものも同時に生み出してしまう

改めて最初の『ねじれ』を見てみます。こちらを読み解いていくと、

「出生」と「善悪」の関係性は、「出生」が(人類が道徳という「社会を維持するための道具」を使うのではなく、道徳という「社会を維持するための価値観」が主体であり、人類はそれを存続させるための道具であるという前提においては、)悪いものをこの世に生み出す行為のひとつでありながら、それを「悪い」と感じる主体そのものも同時に生み出してしまう

という、人類が当たり前過ぎて言及するまでもないように進めていた前提を、丸っきり逆転した形の主張であるが故に起きたねじれだった事が分かります。

…さて、『反出生主義』のねじれの正体を探っていくと、言葉を使ってこの主義を主張することそのものへの矛盾を発見できました。

これを武器に魔王への主張を行いましょう。


【5】『反出生主義』に抗う 魔王への主張

私は、人類の滅亡には反対です。

人間が生み出した理屈、言葉、それに付随する「ルール・基準」というものは、人間が多くの「認識した存在」を出来るだけ長く維持する、使う前提で生み出されたものです。

人類を滅亡させるべく議論の中心にあった『反出生主義』は、端的に言うと、「何故人類を滅ぼすべきか?」「道徳というルールを存続させるため」という二言に纏められます。

この主義では、人類が『道徳』を使うのではなく、『道徳』が人類を使う、という前提の逆転が起こっております。これには道徳という『ルール・基準』が人間より価値のあるものだという証明がまず必要になりますが、『ルール・基準』そのものが対象を存続させるために存在し、人類は人類が生み出した『言葉』という、人類を存続させるためのルール・基準から抜け出せない以上、言葉を使って人類を滅ぼす理由を結論づけようとすれば、どこまでいっても本質的な矛盾を孕みます。

そのため、人類を滅ぼすべき完全な『理』を見つける事は、我々人間とその道具『言葉』からは立証不可能です。

例えば他の動物や宇宙人、魔王様などが、『人間とそのルール基準』と、『人間以外の存在が生み出した新たな道具』を翻訳しうる時、初めて「滅ぼすべき理由」を言葉で語り合えると思います。

…こんな感じかなあ。魔王様、どうよ?


終わりに

如何でしたでしょうか。

ングオオオオアアアアアアアアアアアア疲れた!!!!!

いや~、ただ感想だけでは物足りないなーと思って始めてみたのだけれど、全っ然纏まらなくてほんと投げそうになった。

『反出生主義』に対して、我々は一瞬、納得してしまいがちだとは思います。だけれどどこかこう、アキレスと亀のような、騙されているような感覚に陥るのは私だけでしょうか。その感覚のまま「そうかぁ。我々は滅んだ方がいいのかあ」と、曖昧に流されるような滅亡は嫌だなあと私は思います。…それはそれで日本人らしい滅亡の仕方ではあると思いますが。

というわけで、なるべく魔王にも、反出生主義にも私の無い頭で抗ってみたのですけれど、どうですかね?私が纏めた答えは、グレーの解答を元にもう少し人類存続側に寄せたような意見だと思います。嫌だもん。滅亡。

哲学や道徳は考えても終わりがない学問かもしれませんし、恐らくこの問題に答えなんてないんじゃないかと思いますが、こうやって偶に考える事で、不本意な死や不幸を味わう可能性は減るんじゃないかなあと思います。

ん~。なんであれ、『人類を滅亡』『どうにもできないからリセット』みたいな考え方は、個人的にもやっぱり気に食わないなあ。どうせ限りなく実現不可能な主義主張を声高に謳う理想論者は、例えばタイムマシンだとか、人類不老不死のDr.stoneなんかが開発されたら?といった、他の理想主義者と戦う未来しか見えないもの。夢対夢の夢バトルは楽しいかもしれないけれど、我々は現実を生きているんだから、現実味のある話と、方法と、結論を持ってきて欲しいわね。


あーーーー。文字ばっかり書きすぎて疲れた。そろそろ終わります。

以上、クロシオでした。


















回ればいいのよ元々空気