良い先生=わからない人の気持ちがわかる人ではないか

 良い先生=わからない人の気持ちがわかる人ではないか

 アメブロに2020年7月2日にあげた記事です。

https://ameblo.jp/rozaroza-s/entry-12608463120.html

 自分が使っている教科書の内容がシンプルすぎて、復習をするのにわからないことがあるので、後で必ず動画を見たり、キャプチャで画像をとって文章での説明をつけたものを見ています。

 そういった中で思ったことは、何かのやり方を伝える人=先生 は全くよくわからない人で、かつ手続き記憶に問題がある人を意識した説明が必要ではないかと思いました。

 「〇〇ということがよくできたから先生になりました」という、その分野での優等生を地で行くような人は先生には向かないと私はよく思います。大学の時の恩師が言っていたことですが、「いわゆる優等生で努力が即効果としてあらわれるような人は良い先生にはならない。はっきりいって劣等生とさげすまれながらも、好きだからそのことに一心にむきあった人が良い先生になるのだと思う。なぜなら、わからない人の気持ちがわかるからだ」という、このことは本当であるなと、この頃特に思います。

 ということは、人一倍、手続き記憶に問題があり、他人が1の努力でできることに100の努力が必要である私は、素質があるのかもしれません・・・。

 さらに最終学校はともかくその前段階では、学習困難校に毛が生えた程度のレベルの学校(今は少し盛り返していますが、私がいたころは底でした。2ちゃんねるには〇〇校スレッドがありました)出身であった私は、何をするにもハンデだらけであったこともあり、しかもそういった状況にもかかわら学生時代は推薦とは無縁で、社会人以後も88回仕事関係の公募を出し、ブラック職場でえらい目にあってきたという、ひたすら自分の馬力頼みで棘道の人生でしたので、逆に普通というものがよくわかりません。

 ただ、今になって思えば、大学教員になってからは、むしろ思うように成績がのびない学生や学習習慣のない学生の気持ちが理解できてよかったと思います。特に1校目は学習意欲がゼロに等しい学生が多い大学でしたので、ある意味自分の経験は人生の収穫であったと思うのです。これが何不自由なく過ごしていたら、学生に対してさげすみや怒りの気持ちしか出てこなかったと思います。

 そう考えると全てがご利益や見えない存在からの大きな愛なのかもしれません。

 自分の中でいつかやりたいと思っていることですが、「しつこいくらいにわかりやすい授業」で、特に着装やお茶といった手順を身に着けないといけないものは、安い値段だけれどもわかりやすく、生徒さんに徹底的に向き合っていける先生になれたらよいと思いました。そして、教科書を作るようなことになったら、とにかく写真や図を使って、言葉もわかりやすい内容の教科書が作れたらよいですね。

 (例えば週1の稽古で500円×4週間=2000円で、お茶の場合は本来の形も伝えつつ、お免状取次にはマージンを一切とらずに、自分へのお礼金なしで上に渡す金額のみ提示、個人教授によくあるお中元・お歳暮はナシなど)

 なぜ、こう思うかというと、自分が能力もお金の面もきつい思いをしているからです。そのようなことで意欲があっても、そこの出発点に行くまでに20年近くたってしまうようでは、それこそ時間がもったいないことになります。

 あくまで理想論ですが、順風満帆にいった試しがない人間だからこそ、色々と思いました。

#大学教員 #学習意欲 #学習困難校 #茶道 #着付け #着装

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