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【小説】 愛のギロチン 6

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着古したポロシャツにしわだらけのチノパン、ボサボサの髪、むくんだ顔。姿見の前に立つ自分の姿は、二日酔いなのに無理やり叩き起こされたことを差し引いても、目を逸らしたくなるようなものだった。

だが、何よりも嫌なのは、こんな理不尽につきあおうとしている自分の思考だ。突然訳のわからないタクシー運転手に呼び出され、文句も言わずに服を着て、こうして出かけようとしている自分にこそ、怒りを覚える。

無視してしまえばいいではないか、と人なら言うだろう。

そんなことはわかっている。だが、俺にはそれができない。こうしろと言われたら、断れない。どれだけ不満を感じようが、拒絶を表明した後に訪れる気まずい空気を、それを取り繕うために自分が払うコストを考えると、言葉が出なくなる。

洗面所で手を濡らし、即席の寝癖直しをして、一応サイフと携帯を持ち、部屋を出る。一人で悪態をつく自由くらいはありそうなものだが、それをしたら自分の中の何かが決壊するような気もして、やりすごしてしまう。

廊下を進み、階段を降り始めると、アパートの入口前に一台のタクシーが停車しているのが見えた。五月の土曜、朝八時半過ぎ。腹の立つほどの快晴ーー実際腹は立っているのだーーの下、ピカピカの車体が太陽を元気に反射している。

その様子にどこか非現実感を覚えつつ、階段を降りていく。するとタクシーの後部座席の窓が開き、中から大声が飛んできた。

「やっと来たか! 男のくせに準備が遅ぇなおい!」

大貫だった。確かに昨日の夜、自動販売機の前で会った老人だ。窓から頭を突き出し、怒っているのか笑っているのかよくわからない表情をして俺を指差してくる。

ああ、そうだ。今更のように脳内データベースから昨夜の記憶が見つかる。そうだ、この爺さんだ。いきなり声をかけてきて、足が痛いから家まで肩を貸せと言ってきた。助けてもらっているくせにひどく偉そうで、なんなら文句まで垂れるクチの悪い爺さん。

俺は呆然としながら階段を降りると、大貫の前に立った。理不尽以前に、状況がわからない。一体大貫はタクシーでどこに行こうというのか。そしてなぜ、俺のことを呼び出したのか。

「あの……どういうことなんです、これ」

当然の疑問。当然の言葉。頭の中で俺は俺が大きく頷くのを感じる。だが大貫はやはり怒ったような笑ったような顔で言うのだった。

「足を痛めたと言ったろうが! こんな爺ひとりじゃ、何もできん。あんた、今日は仕事は休みなんだろ?」

ああ、と思う。確かに休日はいつかと聞かれた気がする。そして俺は、次の就職先も決まっていない、有給消化中の身であることを恥じるあまり、慌てて土日休みだと言い返したのだ。

「休みだから、なんだって言うんです」

痛むこめかみを押さえながら言うと、大貫は俺を指していた人差し指を引っ込め、親指を立てて車内の方を指した。

「とにかく乗れ。話は走りながらする!」

つづく

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