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【小説】 愛のギロチン 3

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二階建てのアパートは、壁が薄いと有名なウィークリーマンションに毛が生えた程度のものだ。築年数が長いぶん、それよりひどいかもしれない。三角屋根の建物に、今どき珍しい外付けの階段がついている。部屋数は十二。一階と二階にそれぞれ六戸、俺の部屋は二階の一番奥だ。

金属製の階段に足をかける。運動不足のせいか、酔いのせいか、あるいは精神的なダメージのせいか、体が重い。まるで体の中を血ではなくヘドロが流れているような気分だ。

俯けば、だらしなく膨れた自分の腹が視界を阻む。張ったシャツの合間からは下着用のタンクトップが見え、その裾がめくれて縮れた腹毛が顔を出している。

ため息をつきながら手すりを掴むと、重い体を引きずるようにして階段を上がっていく。

「おい、あんた」

半分ほど登ったところで、どこからか声が聞こえた。

空耳かとも思ったが、「おい」と再度呼ばれ、足を止める。

「こっちだ、こっち」

声は階段の下、いや、道路の方からしている。

振り返ってそちらを見ると、マンションに接している細い道路、そこにポツンと置かれた自動販売機の前に、誰かが座っているのが見えた。自動販売機の発するぼやけた白い光の中に、頭の白い老人が浮かび上がっている。

「……」

状況が飲み込めず俺は黙って見ていた。さっきの声はあの老人が発したものだろうか。老人は少し首を傾げるような様子でこちらを見ている。髪は短く刈られて、肌の色が濃い。なんというか、漁師を思わせるような顔だ。白い肌着と短パンという、まだ肌寒さの残る五月にしては薄着すぎるその服装がそう思わせるのかもしれない。

「そう、あんた。あんただよ」

老人はそう言って俺を指差し、前後に大きく振るような仕草をした。しわがれた声とその大げさなジェスチャーで、やはり俺に対して声をかけているのだとわかる。だが、そうだとしても状況がわからないことに変わりはない。一体なんだ? 酔っぱらいか、あるいは、痴呆老人か。

「あんた、ちょっと、こっち来てくんねえか」

べらんめえ口調で老人はそう言い、また大げさなジェスチャーで“来い来い”と手を振る。

無視しようかとも思った。いや、普通ならそうするべきだろう。こんな時間に自動販売機の前に一人佇む老人なんて普通じゃない。何かトラブルに巻き込まれるかもしれないし、もしかしたら覚えのない因縁をつけられるかもしれない。

だが残念ながら、俺はこういう状況に弱いのだ。強いられたらどうしても断れない。人がいいからというより、ビシッと断る勇気がないのだ。相手の機嫌を損ねるのが怖い。あるいは、機嫌を損ねた結果生まれる気まずい空気に耐えられない。

考えてみればこの性格のせいで、上司にもクライアントにも随分いいように使われてきた。無理な納期を一方的に押し付けられたこともあったし、自分に責任のないクレームにつきあって残業したこともある。

俺はせめてもの不満の提示として一人ため息をつくと、仕方なく階段を降りていった。さっき通った集合ポストの前を通ってアパートの敷地から出ると、道路をぐるっと回って老人のいる場所へと向かう。

「……なんですか」

自販機の光に目を細めつつ聞くと、「動けねえんだ」と老人は答えた。

「……動けない?」

「そこでコケちまったんだよ。足を痛めて……歩けねえことはねえが、階段はちょっとな」

そう言って老人は、俺がさっき上っていた階段の方を指差した。

言葉はハッキリしている。確かに頭は真っ白な老人には違いないが、ヨボヨボした雰囲気はまったくない。それはその快活そうな顔立ちのせいかもしれない。漁師のように焼けた肌に、やんちゃさといたずらっぽさを兼ね備えたような表情。あらためてその顔を見つめ、俺は「あっ」と声を出した。

「……もしかして、同じアパートの」

そうだ。確か、二階の一番手前の部屋だ。過去に数度、その姿を見かけたことがあった。一瞬のことだったし、もとより近所付き合いはしない主義なので言葉を交わしたこともない。だが、一度思い出してしまえば間違いない。

「あ? なんだよ、気付いてなかったのかよ。間の抜けたあんちゃんだな」

「……はあ、すみません」

「いや、すみません、じゃねえよ。いいから肩貸してくれや」

つづく

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