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【小説】 愛のギロチン 1

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「え? 辞めるんですか、会社」

錦糸町南口の小奇麗な飲み屋。俺が退職前の有給消化中だと知った本木は、驚いた顔をして言った。

「ああ、まだ引き継ぎで何度かは出社するけどな」

出てきたビールはジョッキではなく、控えめな大きさのグラスに入っている。テーブルの上には、普段の俺の食生活とは無縁なオシャレ料理が並ぶ。

「……次、どうするんです?」

予想された質問に、落ち着いた口調を意識して言った。何度も頭の中で練習したセリフ。そして、実際にこれまで何度も口にしてきたセリフ。

「まあ、ゆっくり考えようかと思ってな。いい会社が見つかるまでは、フリーランスで活動してもいいし」

「フリーランス? 先輩が?」

本木は心底驚いたような表情で言った。俺はその反応を見て嫌な予感がした。本木なら素直に喜んでくれると思っていた。だが、その驚きの顔にあるのは、喜びというより心配に近い。営業マンである俺は、相手の表情の変化に敏感だ。

「フリーランスか……うーん」

本木はそう言って難しそうな顔をする。俺は思わず目線を落とす。

本木は2年前まで同じ会社で働いていた後輩だ。年齢は今年40の俺より3つ4つ下だが、優秀な営業マンだった。周りの留意も気にせずあっさり退職し、やがて自分で会社を立ち上げた。採用コンサルティング事業で成功し、組織もどんどん大きくなっているらしい。在職中、たまたま音楽の趣味が合ったことがキッカケで話すようになり、会社を辞めた後も、こうして半年に一度くらいの頻度で飲みに行く。

先日誘いの電話を受けたとき、「じゃあウチに来てくださいよ」と言われることを期待しなかったといえば嘘になる。

「……なんだよ、問題でもあるのか」

「いや、問題っていうか……そもそもなんで辞めるんですか」

「なんでって……」

優秀な本木と違って俺は、ごく平凡な営業マンだ。入社して15年以上、過去には社内の営業マンランキングで上位に入ったこともあるが、だいたいの成績は中の上。それなりの売上は立てられるが、どちらかと言えば暗い性格で人望があるわけでもないので、マネージャーへの昇進は叶わなかった。

なぜ辞めるのか。正直に言えば、明確な理由などない。

強いて言うなら、居心地が悪くなったのだ。

ここ最近、業界全体のデフレが顕著になってきたこともあって、俺たちのような「中途半端な年代の社員」に対する風当たりは強くなっていた。年々の昇給が重なって給与は高いくせに、若手と比べて売上が劇的に高いわけでもない。そういう存在を会社が疎ましく思うのもわかる。

「そろそろ自分から辞めてくれないかな」という周囲からの”期待”を受け止めながら、平然と40歳を迎えられるほど俺は図太くない。コミュニケーション能力はそれほど高くないくせに、人の顔色には敏感な性格なのだ。

「俺も来年40だし、このままずっと会社にいてもな」

本木の視線を避けるように箸を取り、どんな味がするのかもよくわからない料理に手を伸ばす。鮮やかな色のソースのかかった魚に、ミニチュアのクリスマスツリーのようなハーブが添えられている。

「確かにそれくらいで独立する人は多いですけどね。でもなあ……」

……なんだ、その言い方。なぜ素直に応援してくれない。そう思いながら、口に入れてもなお味の輪郭を捕らえられない魚を咀嚼する。奥歯で何かが弾ける感じがして、ピリッとしたスパイスの風味が広がる。

「でも……なんだよ」

顔を上げ、できるだけ冗談めかして言った。心の反発をそのまま表現しても、自分が惨めになるだけだ。それにまだ、本木の本意はわからない。もしかしたら何かを確かめるために、わざとネガティブな反応を見せているのかもしれないのだ。つまり、言わばこれは一次面接だ。

だが本木の口調はさらに厳しくなる。

「いいですか、先輩。独立したら、自分で稼がなきゃならないんですよ? 週5日8時間働いていたからってお給料がもらえるわけじゃない」

「……そんなことわかってるよ」

また嫌な予感が押し寄せてきて、俺はもう笑顔をキープできなくなる。また俯いて、魚に箸を伸ばす。本木の声が追いかけてくる。

「先輩、今は価値社会ですよ? 世の中にきちんと価値を提供して、その対価としてお金をもらう。そういう本来の資本主義経済に戻ってきています。価値の多様化やネットの普及もあって、大企業の商品だから売れるって時代は終わりつつあるんです」

何の話だ。価値社会? 対価として金をもらう? 俺が会社を辞めるって話なのに。思わず顔を上げる。真剣な表情の本木は俺をじっと見つめ、言った。

「先輩だからハッキリ言わせてもらいますが、先輩はクライアントに、いや世の中に、いったいどんな価値を提供できるんです? それも、会社の看板を使うことができないフリーランスという立場で」

奥歯でまた、何かのスパイスが弾けた。

つづく

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