見出し画像

多様な価値観は幻想であるのか。

本記事は無料公開となっております。youtubeでの情報発信もおこなっておりますので、よろしければチャンネル登録よろしくお願いします。

死にたいと思ったことは人生において何度もある。しかし、現実には今も生きているし、簡単にいえば勇気は無かった。生きているだけでも幸せであるという意見も理解はできるが、生き地獄という考え方もあるのではないかとも思う。何の為に生きているのか理由がわからない、目的がない、目標がない。死ぬ為に生きているのではないかとすら思えるほどに追い詰められた事もある。社会における自分の存在意義がわからない、働く事で疲弊し続ける事が当たり前とされ、人それぞれの身体的精神的な面や価値観という部分も存在しないように感じる瞬間もある。

じゃあなぜ今、この瞬間も生きているのかといえば悲しむ人がいるからではないか。もちろん、単純に勇気が無いという側面もあるかもしれないが、それ以外の部分であれば誰かに迷惑をかけたくない、悲しませたくないという部分があるのではないか。例えば親が生きているのであれば、どんな形であれ迷惑なり悲しみを与えることになるのは目に見えている。そう考えると簡単に決断ができない事もある。人生において楽しかった事や幸せだという時間は間違いなくあった。その時間は生きているからこそ生まれたものであり、命を宿してくれた人がいるからこそなのではないかとも思っているし、理解もしている。

道徳的な部分、社会道義的な部分等もあるかもしれないが、生きている事には感謝をしているのは間違いない。だが、この国では残念ながら安楽死のような選択肢が無い。だからこそ、死を悪い形で取られてしまう。個性だとか個々の価値観を重要視するという社会を目指すと言いつつも、こうゆう部分は触れられない。多様な価値観を活かすような社会構造、一人一人にあった生き方が推奨されるような社会でも無い。生きる為にはお金が必要であり、お金を得る為には働くしかないという形が当たり前とされている時点である意味多様な価値観は尊重されてはおらず、むしろ崩壊しているのではないか。幻想でしかないのではないかと強く思う。

この記事が参加している募集

最近の学び

サポートいただきありがとうございます。サポートのおかげで今後の活動につなげていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。