見出し画像

何をもって死と言うか

人は必ず、死を迎える。
いくら文明が発展し科学が進歩してもこの事実に逆らうことはできない。

でも、そもそも「死」とはなんだろう。

「生きる」の対義語が「死ぬ」ぐらいとしか正直分からない。

そもそも、生きていることは証明出来まるが死ぬことは証明出来ないという問題がある。

死んだ後のことは分からないのに、
「死んでしまった」と断定するのは少し不思議な感覚がする。

地域や宗教によって定義は異なるし、
時代によっても変わるものなのではないかと思うようにもなった。

人間にとって重要なテーマなのに
それを考えている姿を見ると心配になる。


「嫌なことや悩み事でもあるのだろうか」
「もしかして死のうと思っているのではないだろうか」

死をプラスに捉える必要性は絶対ないし、マイナスに捉えていいと思う。

しかし、

マイナスなことはなんでも知らんぷりでいいのだろうか

もちろん「死」についてのことに限った話ではない。

政治や世界情勢など、
踏み込んで考えてみると見えてくることがきっとある。

向き合うことで今の現状がわかる

それは僕にとって永遠のテーマでもある。

なので、「死について

考えてみようと思う。


1. はじめに

死について考える。

言うまでもなく、かなりシビアなことだ。

そんな極めて難しい問題を記事にしようと思ったのにはきっかけがある。

それは、最近死について考え方が変わったこと。

悲しいことに、令和に入って「死」に関するニュースが続いている。

新型コロナウイルスによって亡くなってしまった志村けんさん。
自殺報道があった三浦春馬さんや竹内結子さん。
急死してしまったダチョウ倶楽部の上島竜兵さん。

他にもたくさんの悲しい「死」のニュースがあった。


僕と同じよう、令和に入ってから「死」について考えるようになった人は少なくないと思う。

そして「死」について考え方が変わった人も。


「社会学」では、安楽死自殺などを学問として扱う。

これらのテーマを扱っていると何が何だか分からなくなることは
日常茶飯事。

正解がないことだから。


だけど、

間違えなく言えるのは
人間に生まれた以上「死」と向き合わなければならないということ。

また、

「死」と向き合うことで「生」を感じるということ


2. 「死」と宗教

「死」の話を語る上で外せないのが宗教だ。
宗教は死ぬことに対しての不安を和らげるために生まれた背景がある。

キリスト教やイスラム教では死んだ後に天国地獄があるとされ、
仏教では輪廻転生の概念から六道があるとされている。

輪廻転生;六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)という6つの世界をぐるぐると生まれ変わりながら生きていくという仏教の教えのこと。

「現世だけでなく死後の世界がある」

この概念が死ぬことの抵抗を緩和させてくれる。

「それぞれの宗教観の中、
どうやったら死んだ後に天国へ行くことが出来るのか人生をかけて探す」

これが当たり前の考え。という人が世界には数多と存在する。

Facebookでも自己紹介の欄に「宗教観」という項目があるように、
どの宗教に所属しているのかがとても大事とされている側面もある。

インドネシアでは、

イスラム教、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥ教、仏教のいずれかを選び住民登録証に記載しないといけない義務がある。

西洋も、

「どの宗教?」という質問は初対面の人に必ず聞くテンプレのようなもの。

「死ぬこと」という人生において最も重要な問題に大きく関わることだから、相手を知る上で大きな指針になるのはなんとなく分かる。

一方

日本人は無宗教の人が多い国の一つ。

それどころか、宗教と聞くとマイナスイメージを持ってしまう人が大半だ。

しかし、

グローバル化を掲げている以上、
もっと世界のスタンダードに寛容になる必要がある



このようなニュース、見たことがありますか。

特に日本人はイスラム教や中東に対するイメージをいいように思ってはいない。(これはアメリカによる情報操作が大きく関わってると思うが・・・)

個人的な意見だが、イスラム(中東)の人たちの考えは日本人に多く通ずる点がある。(『オリエンタリズム』の観点から。


ここまで読んできて
「あれテーマズレてね?」って思った方もいるかも知れないが、
日本人が宗教に疎いことは、「死」ととても関係が深いことだと思う。


3. なぜ日本人は自殺者が多いのか

Datebace; 厚生労働省「諸外国における自殺の現状」

日本はG7トップの自殺率であり、自殺が多い国というレッテルが貼られている。

特に若年層に至っては、
死因の理由第一位が「自殺」という悲しい現実もある。

特に大きな理由が日本の忖度文化にあると僕は思う。

忖度文化は協調性や社会適合能力を高める効果があるが、
個性を殺してしまう側面もある。

だから、アイデンティティが構築される10代に社会となかなか適合できないという理由から自らの命を絶ってしまうのではないか。

また、無宗教という国民性(あくまでも大半がという意味合い)も自殺と大きく関わっていると思う。

宗教は2章でも話した通り、死ぬことに対しての不安を和らげてくれる。

そんな心の拠り所がない状態で多くの日本人は生きている。


4. 何をもって死というか

さて、ここからが本題。

冒頭でも話した通り、私自身最近「死について」の考え方が変わった。

これは社会学を学んでいることも一つのきっかけではあるだろうが、
それ以上に現代の死の在り方の多様性が大きく影響してる。

例として初めに思い浮かべるのは、「安楽死」。

これからこの概念はさらに浸透していくと思うし、
考え方も少しずつ変わっていくのではないだろうか。

①「安楽死」という選択

そもそも「安楽死」という言葉は、さまざまな意味を持って使われている。

主な認識として、

自分、あるいは家族の最後が苦しくないようにしたい。
穏やかに死を迎えたい、迎えさせたい。

という気持ちから出た言葉であることを理解しておきたい。

世界では2001年にオランダの合法化を皮切りに、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、コロンビアが続いた。米国やオーストラリアでは一部の州で認められてるのが現状。


日本では「安楽死」に関する規定はなく違法とされている

と思われがちだが、
先ほども述べたように「安楽死」はいくつかの方法が存在する。

医師が致死薬を患者の体内に注入する『積極的安楽死』
医師から処方された致死薬を患者本人が服用して自殺する『自死介助』

上記二つはいずれも日本では認められていないが、

終末期にあり苦痛のともなう治療を行っている患者が、延命治療を中止した結果として死期が早まる、治療中止という名の『消極的安楽死』

は認められているの。

「安楽死なんて自殺するのと同じではないか」

と思う人もいるだろう。
私自身もどちらかというそう感じてしまう。

だけどそれは、
生きることを中心に考えているからだと考えるようなった。


例えば大きな事故や病気で身体が動かなくなってしまったら、
きっと「死ぬこと」を中心に考えてしまうだろう。


そのとき初めて、「生きること」が選択肢の一つに感じる

これは「自殺」も同じような側面があると思う。

本当に辛くて、その辛さを一掃出来るのなら
「生きること」は選択肢の一つになる。


ウサギは自分を狙う動物に追われたとき己の心臓を止めることができる。
食べられてしまう前に「生きる」選択をやめるのだ。

猫は死期が近いと自ら車に飛び込む。
猫もまた、「生きる」という選択肢を事前に断つことができる


どうやったら死ぬのか

それを考える能力がある人間も同じようなことが出来ると言えるのではないか。


しかし人間には「理性」という感情がある。

理性がある限り、否定的な考えは消えない。


②『平成くん、さようなら』

いきなりだが、古市憲寿さんをご存知だろうか。
彼はおそらく最も知名度のある社会学者だ。

彼の著書に『平成くん、さようなら』という小説がある。

"平成の人,,というレッテルを貼られた主人公が、年号が変わる前に
「安楽死」することを考えるという内容の物語だ。

「安楽死」を考えている主人公それを呑み込み切れない彼女との葛藤が
日常を舞台に展開されている。

ネタバレになってしまうが、

物語のラストシーン、彼が「安楽死」をしたのか否かが分かりにくく
描かれている。

主人公の男は残された彼女が寂しくないように、
自分の人工知能を内臓させたスピーカーを作ってもらう。

最後、彼女が語りかけているのは本物の彼なのかスピーカーなのか分からないようにするという細工がなされているのだ。

この物語を読んでいると、

彼の人工知能が搭載されたスピーカーと話すことが出来るのに主人公は死んだと言えるのか考えさせられる。

彼女は平成くん(主人公)が居ない世界で彼と以前と同じようにコミュニケーションが取れるのだから。

物理的には彼は死んだとされるはずだが、
彼と会話が出来る以上、単に死んだと断定することは難しい気がする。

この小説は一部の人から現実味がないと非難されているが、
今後、起こりうる未来だと思う。


③志村けんさんの死

僕はお笑いが好きで、子供の頃からコメディアンの方々には何度も助けられた。

紛れもなく、その中の一人だった志村けんさんも死んでしまった。

志村さんはレギュラー番組をたくさん持っていて、
死後のテレビでは、追悼番組が連日放映された。


その中でも2020年4月1日フジテレビ系列で放送された『志村けんさん追悼特別番組』内の高木ブーさんの「志村は死なないの」という言葉が
僕の中でとても突き刺さるものだった。

番組自体は追悼番組とは思えないほど和やかなムードで進行していったのだが、

番組終盤、感想を振られた高木ブーさんの一言によってその場の演者を始め、視聴者である我々の脳裏を震わせた。

「決めたの。決めました。46年だよね。ドリフターズとして、志村と僕らといっしょにやってた人間って、ちょっと一般の方と違うんだよね。僕らはね。だから、志村は死なないの。ずっと生きてる」

彼がどんな想いでこの言葉を発したのか理解できなかった。

でも、今になってみるとよく分かる気がする。

これは志村けんさんを始めとするドリフターズメンバーが所属しているイザワオフィスの公式YouTubeチャンネル。

この動画は、1987年〜1996年にテレビで放送された「志村けんのだいじょうぶだぁ」を再編成したもの。

志村さんが亡くなってしまった原因の一つである新型コロナウイルスで苦しむ人たちに少しでも元気を出してもらうようにと提案されたらしい。

動画内の志村さんはとても元気な姿をしていて、相変わらず私たちに笑いを届けてくれる。

このスケジュール帳は誰のものだろうか?

こちらは先程紹介したイザワオフィス公式サイトに記載されている志村けんさんの亡くなられたあとの月の予定帳。

記載されている『志村友達』という番組は、
彼の生前にやっていた『志村でナイト』という番組を千鳥大悟が引き継いだ番組。志村さんが長年愛し一生懸命に取り組んできたコントを彼の友達が視聴するという内容だ。

番組内でも、コメディアン志村けんはいまだに世界中に笑いを届けている。


彼は今でも私たちに影響を与えているのだ


そういう意味で、
高木ブーさんはあのような言葉を残したのだと今はわかる。


まとめ

これまで『死』に関連するニュースや考察を多角面からみてきた。
人それぞれ感じることは違う。だけど、「死ぬこと」を考えることはできたと思う。

冒頭で「死ぬこと」について考え方が変わったと話したが、

それは「死」について考えることが出来るようになったと言い換えること
が出来るのかもしれない。

「死」について考えることができれば、
「生きること」、「生きていること」を知ることが出来るのでは
ないだろうか。

地域や宗教によって「死」という概念が異なること

安楽死や自殺という選択肢が存在すること

そして、

物理的に死んでしまった後でもその人が他人に影響を与えるということ


調べることで様々な意見や観点を知ることができた。

でも、何をもって死というのか。

それは正直、そまだ断言できない。


最後に

最後まで本記事を読んでくれた皆様、ありがとうございます。

映像作家の阿部です。

まだまだ実績が少なく、本当にやりたい0→1のことがあまりできていないため、自分の考えを発信する場としてnoteを利用しています。

もし、僕の思考に少しでも賛同して頂けたらお声かけ頂けると幸いです。

日頃の活動内容はこちらのリンクより見ることができるので、ぜひ覗いてみてください!


では、また。


この記事が参加している募集

多様性を考える

最後まで読んでくれてありがとうございます。もしよろしければサポートを頂けると嬉しいです!みなさんに毎日記事を発信するための活力になります。