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日本の刑事裁判を再考しよう〜『それでもボクはやってない』

「痴漢の冤罪事件には、日本の裁判の問題点が詰まっている」──役所広司扮する弁護士のこのセリフが、この作品の問題意識を端的に言い表わしています。
周防正行は、素材の面白さで勝負してきた生粋の映画監督ですが、本作では、エンターテインメント性にあえて固執せず、一心不乱にわが国の刑事裁判への疑問をスクリーンに定着させることだけに集中しました。結果、2時間23分の長丁場を一気に見せ切ってしまう見応え確かな映画が私たちの眼前に出現することとなりました。

日本の刑事裁判の有罪率が99%であり、その形骸化はつとに指摘されてきたことであり、刑事裁判において無罪を勝ち取ることが至難であることは「情報」としては知っていました。けれども、こうして被告人の立場からリアルに一本の映画作品としてあらためて問題提起されてみると、いろいろと考えさせられることが多いのも事実です。

主人公のフリーター金子(加瀬亮)は、面接に行く途中の電車内で女子中学生に痴漢に間違われて「私人逮捕」され、そのまま警察署に連行されます。一貫して否認するも、結局、起訴され法廷での闘争が始まります……。

基本的には「法廷ドラマ」の様相を呈しますが、周防監督はそのドラマの中に日本の刑事裁判の問題点をいくつも織り込みました。
調書というものは、基本的に警察・検察の「作文」であること。
痴漢犯罪のように物証に乏しい刑事事件の場合は、被害者の証言のみで事実が組み立てられることが多いこと。
裁判官は、検察の筋書きに則り迅速に裁判を終わらせて、担当する案件の数を増やすことで「評価」を高める傾向にあること……などなど。
 
こうした裁判の実情を抉り出すようなセリフが、弁護士と家族・支援者との雑談、傍聴者の会話などで展開されたりするのですが、不自然な講義調にならないところが周防監督の演出の腕というものでしょう。
また留置所や護送、法廷でのシーンに関しても、安っぽいテレビドラマにみられがちな必要以上の緊迫場面を作らず、むしろ全体に抑え気味の演技・演出によって逆にリアリティを生み出しているように感じられました。

主演の加瀬亮、弁護士役の役所広司に加えて、裁判長役の一人、正名僕蔵がこのうえなく良い味を出しています。この人物の人間味を感じさせる言動が、ともすれば単調に陥りやすい法廷ドラマに一つのアクセントをつけていたように思います。司法修習生相手のレクチャーの場面で、この映画の核となる、ありきたりだけけれど美しいセリフが、彼の口から淡々と発せられます。その言葉にこそ、周防監督の熱いメッセージが込められているのではないでしょうか。

映画レビューとしてはここで終わってもいいのですが、もう少し書くことが残っています。周防監督は、この映画に関して「日本の裁判制度の矛盾を多くの人に知ってもらうために作った」という主旨の発言をしています。そこで、本作の問題提起を受けて私なりの見解を補足しておきましょう。

刑事裁判での有罪率が99%だという事実に対して「それだけ日本の検察が優秀だという証拠」という意見が今なお少なからず存在しています。けれども、私はそのような言い分を肯定できません。映画の中でも示唆されていたように、それは検察の「優秀」さを示す数字というよりも「権力性」を示しているにすぎないのです。あるいは裁判所がいかに検察という別の権力に阿っているかという実情をあらわしているにすぎません。そもそも、検察庁という国家の一官僚機構でしかない組織の判断(起訴か不起訴か)が、事実上シロクロの大勢を決してしまうという裁判のあり方はやはり異様です。

もちろん「疑わしきは被告人の利益に」という司法の大原則が必ずしも具現化されていない現実は、法曹界だけにその責任を帰すわけにはいかないことも事実だと思います。ある意味では、国民の大多数がそのような事態を支えてきました。
刑事事件にあっては、しばしば被疑者が逮捕された段階で、場合によってはそれ以前から、警察・検察の捜査方針に則ったマスメディアによって凶悪犯人像が形成され、たちまちのうちに多くの国民によってそのイメージが共有されてしまいます。そこでは、推定無罪の原則も、疑わしきは被告人の利益にという原則も、厳密に意識されることはほとんど期待できません。

その意味では、本作は日本の裁判制度を鋭く告発するものであると同時に、私たち一般人の刑事事件に向けられる煽情的な眼差しにも再考を促すものではないでしょうか。

余談ながら、周防監督はこの作品を撮ったことで、司法問題にも関与する機会が増えたようです。民主党政権下で発足した法務省所管の法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員に選ばれたのもその一例。そこでの奮闘ぶりは自身の著作『それでもボクは会議で闘う』に記されています。映画同様、こちらもオススメです。

*『それでもボクはやってない』
監督:周防正行
出演:加瀬亮、瀬戸朝香
映画公開:2007年1月
DVD販売元:東宝

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