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移民たちが集う教室で〜『パリ20区、僕たちのクラス』

サッカー・ワールドカップのフランス代表が様々な人種で構成されていることが今さらながらに想起されます。フランスという国家もまた人種の坩堝。その首都パリのなかでも移民が多く多様な人々が暮らしているといわれる20区の公立中学校を舞台に、24人の生徒と担任の国語教師の交流を描いたのが『パリ20区、僕たちのクラス』です。

ストーリーなどあってなきがごとし。何かにつけ教師に逆らう生意気盛りの生徒たち、彼らを指導する担任の国語教師とその同僚たちの奮闘。カメラはほとんど学校の外に向けられることはなく、教室や会議室、校長室などの様子を淡々と切り取っていくのみ。それだけの映画なのにちっとも飽きさせないのだから、やはりローラン・カンテの演出力を称揚すべきなのでしょう。

授業風景を描出するカメラワークが一種独特です。後方から授業参観時の保護者視点で教室全体を捉えたり、逆に教壇から教師の視点でカメラが生徒たちを舐めていったり、といったお決まりのアングルが基本的には斥けられています。といって斬新なアングルが採用されているわけでもありません。カメラは律義に、発言する者たちを大きめのサイズで捉え、個々の表情をきっちりおさめることに専念します。気のきいた構図で気のきいたショットをものにしようという洒落っ気を自粛したような撮り方は、この映画のコンセプトにかなっているように思われます。

そうして捉えられた人物の顔が、いい。
少し頼りなさそうだけど真面目そうな国語教師を、原作者のフランソワ・ベゴドー(役名もフランソワ)が演じています。生徒に反論され、たじろいだりムキになったり、保護者面談で優等生の父母と話すときには和んだ表情を見せたり、作為を感じさせない自然な表情がじつに印象深い。女子生徒に暴言を吐くやら、報告書には自分に不利なことを書き漏らすやら、見方によっては「ダメ教師」の範疇に入るのかもしれませんが、それがかえって彼に生々しい存在感を与えていると思います。

生徒たちの伸びやかな存在感も特筆に値します。
何故か新年度になってフランソワに逆らうようになったというクンバは、「私のことを目のカタキにしている。これからは先生とは話しません」と「絶交」の手紙を先生のロッカーに置いたりするのですが、反抗する時でも悪戯っぽい笑顔を見せて憎めないキャラクター。

クンバの親友でこまっしゃくれたエスメラルダは、自己紹介文に「警察官になりたい。警察官は悪い人ばかりなので、いい人も必要です」と勝手なことを綴るかと思えば、後半ではプラトンの『国家』を読んだことを教室で話してフランソワをビックリさせたりもします。
ちなみに彼女は真面目なルイーズとともに、教師たちの合議による生徒の成績判定会議(?)に生徒代表として同席し、だらけた態度で傍聴していたくせに同級生たちに委細を報告して、これまたフランソワを驚かせます。(フランスの中学校って民主的なんだなぁ)

中国からやってきたウェイはフランス語は苦手ですが、それ以外は成績が良い。彼の温和な雰囲気と保護者面談にやってきた両親のニコニコ顔がこの映画に優しいアクセントを加えています。

そしてマリ出身のスレイマン。クラスで一番の問題児。フランソワに対して最も反抗的で、しまいには授業中に席を立って教室から出ていこうとします。その際にカバンの金具が近くに座っていた女生徒の顔面にあたってしまい怪我をさせてしまいます。こうして彼は懲罰会議にかけられることに……。

生徒役を演じているのは、映画の舞台となった中学校で実際に学ぶ演技経験のない生徒たち。監督は、生徒たちと週1回、7ケ月のワークショップを行なったそうです。彼らが偶然に発した言葉を脚本に取り込んだりしたといいますから、個々の生徒像はそれを演じる彼ら自身の個性と重なりあうものなのでしょう。この映画に登場する人々の「自然」な演技は、そうした取り組みから生み出されたものです。

あえてこの映画のハイライトシーンを指摘するならば、スレイマンの処遇を決定する懲罰会議の場面ということになるでしょうか。そこでは、フランス語を理解しない母親のために、スレイマン自身がいちいち通訳する場面が描かれます。自分がいかに授業を妨害したか、学校側の主張を母親にマリの現地語に訳して聞かせ、逆に、家庭ではどれだけ立派に振る舞っているかを説明する母親の言い分を、バツが悪そうに、先生たちにフランス語に通訳していきます。
母親の抗弁もむなしく、スレイマンの退学処分が下されます。その結果を息子に通訳してもらった母親は一言「さようなら」と言い残して立ち去り、息子がすぐ後に続く。その微妙な雰囲気といい、その動作のタイミングといい、映画的緊張に満ちた秀逸なるシークエンスだと思います。

この映画を評するのに「ドキュメンタリー・タッチ」という言葉が判で押したように使われていますが、少なくとも日本のドキュメンタリーなら、学校や教師にもう少し明確な輪郭を与えたことでしょう。「荒れた教室を立て直した立派な学校」だとか「生徒を立ち直らせる熱血教師」だとか、あるいは逆に「今どきの公立校はこれだけ荒廃している、有効な手立ても打ち出せない教師たちの苦悩をそのままレポートした」とかいうように。
しかし、ここには完全無欠なる模範的教師も能力を欠いた完全ダメ教師も登場しないし、憎たらしいだけの悪ガキも登場しません。誰もが等身大の思いやりや欺瞞や弱さや人間性をもって振る舞っているように見えます。

ところで、この映画では16本もの集音マイクが使用されたとか。「教室で起きた音はすべて拾った」と監督。なるほどこの映画にはノイズが満ちています。だからこそ単純な図式化をも許さないのでしょう。

「国語」を教えたり教わったりするとは、どういうことなのか。
そもそも「国語」とは何なのか。
人が教えたり教わったりすることはどこまで可能なのか。
一人ひとりの個性と共同体の合一のバランスをいかに考えるべきなのか。
共生とはいかなる状況をさす概念なのか。……

……この映画は、いろいろなことを考えさせてくれます。単なるヒューマンドラマでも青春映画でもない。山田洋次の『学校』シリーズが示したような過剰な物語性をここでは極力排しているがゆえに、いっそう様々な深い問いかけが浮かびあがってくるようにも思えます。
無論、そのように書いたからといって、ローラン・カンテが山田洋次よりも映画作家としての力量や洞察力が上回るのだと指摘するつもりはありません。ローラン・カンテが抱え込んだ問題意識は、そのままフランスという国家が背負っている多様性の困難を映し出したものなのではないでしょうか。そしてそれは良くも悪しくも今の人類社会全体に通じる極めて具体的な問題であると思います。

欧米各国で「移民」をめぐる問題が政治課題として先鋭化している昨今、あらためて本作を見直することも意味あることではないでしょうか。

*『パリ20区、僕たちのクラス』
監督:ローラン・カンテ
出演:フランソワ・ベゴドー、ラシェル・レグリエ
映画公開:2008年5月(日本公開:2010年6月)
DVD販売元:紀伊國屋書店

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