記者は国民を代表していないからこそ自由に活動できる

記者が国民を代表しているというならその根拠を示せ。──首相官邸と東京新聞が記者の「代表」性をめぐってバトルを繰り広げています。

首相官邸が官房長官記者会見における東京新聞記者の質問権を制限するような要請を記者クラブに出したことに端を発する問題です。
東京新聞と官邸とのやりとりのなかで、東京新聞が「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」と主張したことに対して、官邸側が冒頭のように切り返してきたというのです。

私の結論を先にいえば、記者は別に国民を代表しているとは思いません。私たち国民が民間人たる報道記者に「代表してくれ」と頼んだ覚えもありません。望月衣塑子記者の仕事ぶりは他の記者に比べマシだとは思いますが、記者会見で主流を成している政治部の記者連中が、国民の代表だとは形式的にも内容的にも容認しがたい。新聞社の側から「我々は国民を代表している」と言うのは一部の国民からも反発を食らったのは当然でしょう。

もちろんだからといって首相官邸側を支持するわけでも毛頭ありません。彼らの問いかけが論点をズラすものであることは明白ですから。
その意味では以下の布施祐仁氏のツイートに示されている認識を全面支持します。

言論市場という言葉があります。報道を含む言論活動は、自由な言論市場のなかで議論を交わし、時間をかけて正邪を市場の評価にゆだねていくものです。そこでは議論の内容はもちろんのこと、議論に参加するしないも市民一人ひとりの自由に委ねられます。言論市場にあっては、誰も国民を代表できないし、誰かが誰かを代表することも厳密にはできません。言論・報道の自由とはそういうものです。

話をわかりやすくするために、あえて理念的な話をしましょう。
100人のうち99人までがAを事実だと信じている案件でも、緻密な取材の結果、事実はBだと確信したのなら、そのように伝えるのが報道記者の役割です。仮に国民を「代表」している立場だと、そのような圧倒的多数の認識に逆らう報道・言論活動を遂行することは困難かもしれません。

むしろ記者は国民を代表していないからこそ、いかなる場面でも自由に自己の信条や確信に基づいて活動することが可能になるのです。誰かを代表した途端、その個人の自由には制約がかかります。実際に自由な報道活動が常に可能かどうかは別として、建前として他者の誰をも代表しない立場にあると認識するのが最も報道の自由を担保すると私は考えます。
多くの国民の支持を得るには「国民を代表してここにいる!」と叫ぶよりも、報道内容によって訴えかけるしかありません。

以上述べたように、とりわけ政府を相手にした論戦において、記者の「代表」性を押し出す論法は、いささか筋の悪い戦い方ではないでしょうか。しかし東京新聞の不用意な言明を今さら必要以上に咎めるつもりはありません。布施氏の言うように、自分たちの不誠実な対応を棚にあげて東京新聞の揚げ足取りをする政府側にこそ、より大きな責任があることは明らかです。

記者が国民を代表していようがいまいが、政府には政策遂行の過程で生じた疑惑に関する説明責任があります。記者会見はその一つの有効な場としてこれまで機能してきました。少なともそのように期待されてきました。しかし昨今、政府側はその機能を麻痺させ、責任を充分に果たしていないと多くの主権者=国民は感じています。論点をズラす前に、政府が主権者に対して応えるべきことが山積しているのではありませんか。

戦後日本で先人たちが積み上げてきた記者会見という意義深い場を、権力を持つ者たちが自分たちの考えで一方的に染め上げようとするのは、民主政国家の看板が泣く蛮行というべきです。

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