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傲慢な弱者について(弱さの告白のリスク)


人間だれしも弱い部分を持っており、それぞれ多かれ少なかれ傲慢さを抱えている。ただそれは成長の過程で上手く制御できるようになることがほとんどだ。むしろ大人になると弱味をさらけ出すのは恥ずかしい!同情されるのは御免だ!という人が増えるようで……これはこれでプライドが高いと揶揄されてしまう。
また、異なる角度で「傲慢と成長」を考えてみると、容姿やオーラに恵まれたためにちょっとした傲慢さがスパイシーな魅力になってしまうパターンが見受けられる。後者は傲慢というより我儘や頼るに近く、本人も我儘の出し方を熟知していることが多いので制御できているといえばできているといえる。

今回私がこのnoteに書きたいのは、成長の過程で制御できていくような単純な類の傲慢さでもなれけば、その人自身が魅力の一部だと理解し受け止め利用しているような我儘さでもない。一言で言うと「弱者であるが故の傲慢さ」である。


三島由紀夫の言葉に次のようなものがある。

やたらに人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であって、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所をみとめるのに、人も同じように弱いということを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
そればかりではありません。
どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

三島由紀夫『不道徳教育講座』

                 
近頃は、人間の精神の不調に病名がつけられる。それも、とても簡単に。鬱病やパニック障害をはじめHSPなど病名と認められていないような特徴のようなものまである。弱者男性?というような得体の知れない概念まで出てきている。私自身は経験はないにしても人間みな精神的に不調になる時期があったり、苦手なこともある。これらの後天的な精神の不調に苦しんでいる人がいることもよく分かるし、自分の状態に名前が付くことがある種の安心感に繋がるのもよくよく分かる。親しい人に自分の過去や今置かれている状況を説明して寄り添ってもらうことも人間関係の構築には欠かせないことだろう。

以上のことを重々承知でいいたいのは、精神疾患をはじめ過去のトラウマやそれにともなう苦手なことを自分の「弱さ」として告白すること自体が「自分のトリセツ(取扱説明書)」になっていないか?ということだ。もちろん肉体的な持病があり周囲に話して「もしもの場合」に備えておかないといけない場合は別として。

それを聞かされた相手は「話してくれてありがとう」と思う反面、無意識に弱点を刺激してしまわないよう細心の注意を払うことになる。言葉遣いや態度にはじまり、トラウマを刺激しないように四六時中気をつける。自分にとって幸せでも相手にとっては自慢になるのかな?なんてずっと頭を悩ませるわけだ。
言った方は「いやいや気を使えと言っているわけじゃない!」と思うだろうが、親しい相手にそういう告白をされた人は相手を「そういう(わざわざ告白しなければいけないほどのことを抱えた)人」という風にみるほかない。実際に配慮したら相手の精神が安定し、配慮しなければ崩れてしまうのだから。

そう見られ扱われると分かった上で告白し「だから具体的にこうしてほしい!配慮をお願いしたい!」と素直に頼るなら前に進めそうだし親切だが、一番タチが悪いのは具体的な指示もなしに告白だけしてスッキリしておいて「特別な配慮はしてほしいし地雷は踏まないでほしいが、弱者扱いするな!同情するな!」と矛盾した要求をすることだ。弱さの告白は無条件に相手を強者としてしまう。「弱者扱いするな!同情するな!」と主張するならば、自分のなかのある程度の不調や昔のことは自分で向き合って解決するべきだし、それが乗り越えて強くなるということだと私は思う。親しい人に理解して配慮してもらいたいのならば、変なプライドは捨てるべきだ。

少なくとも弱さと向き合って逞しく生きていきたいと思うならば、ある程度のことは自分の中で消化するように努力するのも手じゃないだろうか。
専門のカウンセラーに定期的に話すなり、自分でモヤモヤの解消法を見つけるなり、同じ問題を抱えている仲間に相談するなり……

 実際に世の中には、同じような問題を抱えながらも他人のせいにせず高い志をもって逞しく生きている人がいる。

「弱い存在だから無条件に配慮してほしい。でも同情はするな!プライドも保たせてほしい」という願望は対等な関係の上には成立しない。たとえば子供と親、生徒と先生、患者と医者というような立場の差とケアの責任が生じる関係性でしか通用しないのだ。親子なら無償の愛でなんとかなるが、生徒と先生や患者と医者などはもはや対価が必要となる立派な「仕事」だ。

相手に告白だけして、配慮とプライドのどちらもを要求し……それに上手く合わせられなかった相手を責めたり「僕(私)は告白した通り弱者なんだから!」「お前が傷つけた!」と憤ったりするのは傲慢他ならないし「弱者」であることに固執し過ぎだと思う。かっこ悪い。
特に恋人や友人は対等な関係でないと上手くいかない。弱さを全て受け止めて配慮し励ましながらケアする存在ではない。

自分のことで精一杯で自分が傷付くことにばかり意識が向くうちは恋人を作るのは難しいとすら思える。また仮に自分が相手を傷つけたとしても「それはこういう症状で〜」と言い訳してしまうようで話にならない。

「そうだねそうだね。あなたは悪くない。状況を知っていて配慮できない相手が悪いんだよ。あなたの告白につけ込んで優しさに甘えたのよ」と無責任に頭を撫でて甘やかしてくれる人達のもとで一生弱いままでいたらいいとさえ思える。その被害者意識と弱さ=優しさの勘違いが弱さの根源だと気付けないまま。

そして、自分が相手にした要求や要求が上手く通らなかった際に生まれる被害者意識にはなんの疑問も持たないまま相手の配慮のなさだけを非難し続ける。

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