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新しい観客を考えるプロトタイプ #1

こんにちは。アートマネージャーのてらだです。

密かに進めている企画「新しい観客を考えるプロトタイプ」について記録しておこうと思います。

はじめに/「新しい観客を考えるプロトタイプ」とは?

私が、ごく個人的にやっている企画なのですが、一言で言うと、舞台芸術と観客の関わりを探るための実験をくり返していこう、というものです。

これに至った経緯は、以前のnoteに書いています。

一般的な観客の体験というと、事前にチケットを購入し、公共交通機関に乗って決められた時間に劇場へ行き、硬めの椅子に座り、静かに舞台の方を向いて1時間半から2時間を過ごし、帰りにグッズ売り場をチラ見して帰る、というような感じでしょうか?(体験自体も捉え方も色々あると思いますが)私は今「静かに舞台の方を向いて1時間半から2時間を過ごし」という部分に、風穴を開けてみたいなと思っています。観客が、沈黙を強制され客席に縛り付けられていなくていいとしたら、何ができるだろうか?

ちなみに、プロトタイプについては、KESIKIさんが「みんなのプロトタイピング」でその考え方を説明してくれています。

プロトタイピングは、最初に「正しいかどうか」の判断をしません。「失敗」という考え方さえもしません。いくつものアイデアを、荒削りのままでカタチにする。ユーザーに使ってもらい、その様子を観察する。その反応やフィードバックを集約して得られた「気づき」もとに新たなアイデアや改良に着手する。こうしたプロセスを繰り返しながら、スピーディーに物事を進めていきます。


経緯/「アートってよく分からない」への返答

そもそもの問いは、アートを「分かる」必要があるのか? でした。学生時代、友人に、芸術に関わる仕事をしようと思っていることを伝えると、「芸術って難しい」「アートってよく分からない」(ために面白くない)と言われることがありました。育った環境なのか、周りの人の影響なのか、気づいた時にはアートを仕事にすることを志向していた私は、この「アートってよく分からない」について考え始めました。全員にアートを好きになってもらおうとは思わないけど、これを言われた時に、自分として、何と言葉を返したらいいのか考えました。

まず「分かる」ことが「作者の意図を理解する」ことだとすれば、観客が作者の意図を完全に理解することは不可能だと思います。

これはアートに限らず、言語や文化を共有していたとしても、他者のことを「完全に理解すること」はできない。他者を理解しようという気持ちが無駄である、という意味ではありません。ただ、他者の意図は完全に理解できるものだ、という前提は捨てたほうがいいんじゃないか。逆も然りで、自分のことを完全にわかってくれる人、というのも存在しないと思います(何を「完全」とするか、にもよりますが)。

アートの話に戻りますが、「アートが分からない」(ために面白くない)のは、作者のことを分かってあげなきゃいけない、という前提があるからなのではないかと思います。

作者が何を意図して作ったかということを考えることは、それはそれでとても面白い行為です。ただ、それだけに鑑賞者が縛られたり、鑑賞者をその目的で縛ったりすることは、本来多様であるはずの作品との付き合い方を制限してしまう可能性があります。鑑賞行為の主体である鑑賞者が「何を観るか」「どう観るか」という部分も、作品そのものと同じくらい面白いんじゃないか? そして、そこを面白がれるものと肯定した時、作品と鑑賞者の様々な関わり方を許せるようになるんじゃないか?

では、そこをどう面白がるか。普段、アートを鑑賞した後に、感想をアウトプットすることは、割と一般的なことではないかと思います。アウトプットと言ってもそんなに堅いものではなく、一緒に行った人と話をしたり、Twitterに呟いたり、日記に書いておいたり、友人に薦めるメールを書いたり、という程度のことです。

ただ、演劇やダンスなどの舞台芸術作品の場合は特に、それは大抵、作品の上演が全て終わった後に行われます。上演中、つまり、芸術体験の真っ只中に観客に何が起きているかは、芸術の鑑賞体験としては最も鮮度が高いはずですが、なかなかアウトプットされません。

それは当たり前で、なぜならそれをすることは、他の観客の権利を侵害する行為になり得るからです。劇場での観劇中に、感想をずっと喋っていたり、携帯に何かを打ち込んでいたり、紙に何かを書き続けていれば、周りのお客さんに白い目で見られるかもしれません。最悪の場合、劇場から追い出されます。

しかし、このような鑑賞者主体のアプローチを探ることが、鑑賞行為の可能性を拡げることにならないかと思うのです。

ワークショップデザイナーの臼井隆志さんは、芸術体験をしている間、鑑賞者は「事実を見つけ、感受性で受け取り、意味をつけていく活動を、心の中で高速で循環」させ、それによって「芸術の経験の構造化」を行っていると言います。よって、観客とはクリエイティブな存在であり、観劇とは創造的な活動である、と。(この文章の中でも、臼井さんの言葉をかなり参照させていただいております。)

やったこと/上演中の経験をグラレコで記録する

前置きが長くなりましたが、じゃあ実際に何をやってみたのか?

プロトタイピングの一回目は、オンライン配信されている一つの舞台芸術(映像)作品を参加者みんなで鑑賞し、鑑賞している間、そこで感じたことや思いついたことを、グラフィックレコーディングの要領で紙に書き続けてもらうワークを行いました。

実はこれ、去年東京芸術劇場シアターイーストで実際に行われた『プラータナー』スクールというイベントを参考にさせていただいています。(実際に参加することはできなかったので、あくまでも「参考」です!)

演劇作品『プラータナー:憑依のポートレート』の公演に付随して開かれた「『プラータナー』スクール」は、舞台の出来事をグラフィカルに記録し、その記録をもとに観劇後のもやもやを言い澱みながら対話することで、作品をより深く味わうプログラムです。

このイベントは、実際の劇場で行われましたが、コロナ禍で劇場に足を運ぶことがままならない今、幸いなことに、オンライン空間にはオンライン映像配信が溢れています。自宅で気軽に(しかも多くの場合無料で)世界中の作品にアクセスできるこの特異なタイミングを生かさない訳にはいきません。

Google Meetで集まってもらった参加者に、企画の趣旨を説明し、鑑賞+グラフィックレコーディングをスタート。今回は、チェルフィッチュの「消しゴム畑」を、それぞれの自室から鑑賞しました。鑑賞中は、作品から何を発見し、何を想起し、自身の中でどう意味付けしているのか、リアルタイムで記録してもらいました。それによって、芸術体験の真っ只中に起きていることの可視化をすると共に、各々の軸(何を見ているのか)を見つけてもらう試みです。

レコーディングにあたっては、下記の3つのルールを伝えました。

・他人への伝達が目的ではないので上手くなくて良い
・手を動かし続ける
・絵が難しければ単語や文章でもOK

終演後は、まずはレコーディングしてもらった絵を撮影もしくはスキャンし、オンラインホワイトボードアプリのmiroに貼ってもらいました。


参加者のグラフィックレコーディング(一部)

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次に、その絵を見ながら、鑑賞中に考えたことを紹介してもらい、それに対して他の参加者がコメントしていきました。当然、同じものを観ていても、人によって観ている軸や、どうグラフィックとしてアウトプットするかに大きな違いが出ました。参加者それぞれが、感じたことや連想したことを細かく描いてくださったことで、その違いがはっきりとわかりました。

グラフィック観賞後のコメントとして「自分は聴覚/視覚をよく使っていることに気づいた」「絵が描けなくなって途中から文字のみに振り切った」「その人が何に興味を持っているのかが分かった」「その感覚には共感した/しない」「〇〇さんほど網羅的に情報を拾えなかった」という話が出ました。


実際に使用したmiroのボード

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わかったこと/作品鑑賞のプロセス自体を鑑賞する

当初はっきりと意図していませんでしたが、このワークは結果的に、作品鑑賞のプロセス自体を鑑賞することになったのではないかと思います。人によって異なる観劇の軸、そして、それがどうアウトプットされるのか、その違いを鑑賞したことで、個々の観客を主体とした作品との関わりと、その多様性を肯定することができたのではないかと思います。

ちょっと話が大きくなりますが、自分が世界とどう関係をつくるのか、その軸を知る手段の一つとも言えるかもしれません。

ただ、もう一つやってみて分かったことは、インプット(鑑賞)と同時にアウトプットが行われるので、「見逃し」「聞き逃し」が起こる、インプットのみする場合に比べ、「観ること」に100%のエネルギーを使えない可能性も十分にあるということです。自分が描いている間に目の前で起こっていることは、どうしても見逃してしまいます。ただ、このワークの特徴は、芸術体験の可視化をするところにあるので、作品全てを完全に観るということが目的ではないのです。

そもそも、作品を「完全に観る」とはどういうことか? 普段私たちは作品を「完全に観られ」ているのか?


今後の展望

このプロトタイプを続けてみたい身としては、やはり実際の劇場でできるかがネックです。アウトプットの行為自体が、作品の上演や他の観客と作品との関係構築を邪魔してしまうのですから。作品や作者、他の観客にも敬意を払った上で、この実践が継続できないか、探っていきたいところです。

あとは、鑑賞中のアウトプットをグラフィックに限らずにやってみたいという思いはあります。例えば、手軽にできそうなこととして、Youtubeのストリーミングは使えそうです。コメント機能で思ったことを上演に並行して書いていく。作品に集中したい人はコメントを非表示にできますし、他の鑑賞者とのやりとりも可能になります。以前、あるワークショップで、スタジオで踊るダンサーを観ながら紙を切り貼りして工作したこともあります。鑑賞者のアウトプットと作品がインタラクティブに作用できたら、それも面白そうです。


今回はこんなところで。新しい観客を考えるプロトタイプは、引き続き、ゆっくりじっくりやっていこうと思っています。「やってみたい!」や、「こんなのはどうか?」などのご意見は大歓迎です。コメントでも、TwitterのDMでも、ご連絡ください。


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