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高貴なる人 第3話

3.ミニマリズム

 豊かさを誇示する最も効果的な方法を教えよう。それは、身の回りのものを、手当たり次第にすべて捨てることである。ゴミ箱に捨てられていくのは、まだ寿命に達していないものばかりだ。
 しかし、これほど単純なアイデアは他にない。いらない物は捨てる。このワンアイデアさえ守れば、くだらないしがらみにとらわれる心配は、金輪際、ありえない。すばらしい、この新時代の思想をたたえよう。(出典:ミニマリズムその可能性の確信)


 男は今悩んでいた。彼が悩むのは珍しいことで、選挙のときも、ここまで悩まなかった。知り合いの議員に出馬する気はないか、と訊かれたときのことである。たまには馬の気持ちを味わってみるのも悪くない、と即断した。
 男が今悩んでいるのは、自著を捨てるかどうか、ということだった。本棚の空きには限りがある。電子書籍がぱっとしないこの国では、紙の本を持たないというのは、あまり現実的ではなかったが、だからといって、すべての紙の本を受け入れる気にはなれなかった。これまで、なんども苦渋の決断をしてきた。捨てたくないものを捨ててきた。ここまできて、妥協はしたくなかった。自分に厳しく、他人に甘く、これを彼は辞世の句にしたいと思っていた。これを今際の際に詠むことを目標に、人生計画を立てている節さえあった。しからば、彼の人生、彼の人格が凡庸なものに固まっていったのは、凡庸な言葉を目標に生きてしまったせいもあるのかもしれない。
 あらゆるものを捨ててきた。彼は断捨離という言葉が好きだった。シンプル、という言葉はもっと好きだった。キックボードを捨てた。ロデオマシーンを捨てた。箪笥を捨てた。テーブルを捨てた。彼は今床でご飯を食べている。自転車を捨てた。電車やタクシーなら、所有する必要がないからだ。テレビや、ゲーム機を捨てた。かわりに時間が手に入った。時間は時計と違って場所をとらないし、重くもない。絨毯を捨てた。スリッパを捨てた。調理器具のほとんどを捨てた。はさみを捨てた。定規を捨てた。観葉植物は勝手に近所の公園に植え直した。
 すぐに、部屋が広すぎることに気づいた。彼は引っ越しを決意したが、未だ捨てられないものがあった。それが本だった。特に自著は、いままで迷いなく動いていた彼の動きを止めた。
 彼はこう考えた。自分で持ち歩いたり、自宅に置いておく必要がなく、しかし必要になったときはすぐに取り戻すことができる状態にするためには、どうすればいいだろうか。質に入れるのに似ているだろう。自分は金という、ほとんど概念に近い物質を手に入れるかわりに、物を預ける。必要になったら、金と交換することができる。これなら、普段は身軽でいられる。となると、現代の質屋に適合する物を見つければ良いということになる。 現代の質屋、それは別の言い方をすれば、自分の本を金に変換して、いつでも買い戻せるように、その本を売り物の状態にしておくということだ。なるほど、これはつまり、本を売ってしまえば良いのだ。本が書店に並んでいる限り、いつでも買い戻すことができる。絶版になっている本だけを手元に、それ以外は売るなり捨てるなりしてしまえば良い。なるほど、この社会とは、巨大な渦なんだ。商品はぐるぐる回っているだけで、本当の所有というものはない。資本主義とはこうやって使うのだ。
 こうして、彼はすっきりした気持ちで、さらに自分の所有物を減らすことができた。
 彼は舌なめずりをしたかったが、すんでの所でこらえた。彼には貴族的なところがあったので、舌なめずりすることはできなかった。彼ほど貴族的なところのある人物が、貧困にあえぐ人たちに対する想像力を微塵も有していなかったのは不思議なことである。彼にとっての世界は、ビー玉くらいの大きさしかなかったと言っていい。もちろん、彼はビー玉を美しいと思っていたし、これが世界だ、と恥ずかしげもなく確信していた。

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