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読書会 『民主主義の育てかた』第3章

毎週火曜日にオンラインで集まって行っている読書会。今年の4月から始まり、気付けば2冊目に突入していました。今は、神代健彦 (編) (2021)『民主主義の育てかた:現代の理論としての戦後教育学』を読んでいます。すでに、序章、第1章、第2章、第3章と4回の読書会を終えていて、第3章というなんとも中途半端なところからとなってしまいましたが、読書会で議論したことや考えたことなどをまとめていきます。

前回は、第3章「「地域と教育」論—コミュニティ・スクールは誰のために」(三谷高史)を読みました。特にこの章を読んで私が一番気になった、「教師と地域の関係」にフォーカスしたいと思います。

 「学校と地域の連携」や「地域に開かれた学校」などが言われるようになって久しいですが、この「地域と教育」論のルーツは戦前の生活綴方運動にまで遡るそうです。1930年代、北方性教育運動の中で、教師たちは、「きびしい現実の生活に立脚して、そこから地域の新しい生活文化を創造していく主体を育てることを目標にすえた生活綴方を実践」していました (p. 72)。私はそもそもこの「生活綴方」について名前を知っているくらいで、それが何なのかはよく知りませんでした。参加者のひとりが言うには、「(「地域と教育」論の中で出てくる)生活綴方では、地域や家庭での子どもたちの「生きる」ということへの切実で生々しい問題を作文を通して掘り起こし、それを学校教育の中で引き受けようとするようです。
 本章を通して何度も出てくる戦後教育学における「地域と教育」論の中核的な思想が、「生存権の在り方を標準とする地域認識が教育という仕事の内実を吟味する根本的に重要な尺度である」 です (p. 73)。この一文の意味が最初はなかなか掴めませんでしたが、読書会メンバーの中では、子どもたちの生が懸かった生存権の視点から地域がどうなっているのかということを認識し、その認識が教育の中身を決めるための重要な尺度であると解釈しました。
 ここで問題となるのが「教師と地域の関係」です。私が本章を読んで最初に思ったことは、これは私の印象に過ぎませんが、自分が勤めている学校のある地域に暮らしている教員は少ないのではないかということです。この生活綴方の実践は、子どもたちと教師が同じ地域にともに暮らしているからこそ、教師が子どもたちの生存権に関わる地域認識が自然と可能だったのではないかと思います。
 ある参加者が言った、「今の学校にとって、地域は教材でしかない」という言葉がとても印象的でした。多くの教員がその学校のある地域に住民の一人として暮らしていなければ、「生存権の在り方を標準とする地域認識」はなかなかできず、教育内容として地域を対象化するに留まってしまうのは頷けます。
 現在は、教員が異なる市町村間を異動するのは当たり前になっていますが、これは、1956年に成立した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、県費負担教職員の人事権は都道府県教育委員会が持つとされ、教職員の市町村域を超えた人事異動が行われるようになったという背景があります (文部科学省「教員の人事異動の実態」渡邊ほか (2019)「県費負担教職員制度運用の多様性に関する調査研究」 を参照)。
 生活綴方が実践されていた戦前や戦後改革期における「教師と地域の関係」からは、その関係性が大きく変わってきていると思いますが、本章では、「地域と教育」論の現代的意義を、「子ども・保護者・地域住民の学校参加」に置いています。教育内容としての地域に留まらず、地域住民、保護者、そして子どもたちなどその地域に生きる人々を教育への参加主体として認識することが教員には求められます。「地域に開かれた学校」の実現には、まずは教師と地域の関係を考え直さないといけないような気がします。教師がその地域のアクターになっているのか、なるためにはどうあればいいのか、今後考えていきたい課題です。


一緒にこの本の読書会をしている、ゆるり英語教育 かわむら さんの第3章のまとめ記事↓

このレベルで本のまとめや自分の考えを書けるようになるのはいつになることやら。。。

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