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デザインの本歌取り

デザイン仕事のとき、いわゆる本歌取りというか。アーカイヴをどのように活用してゆくか。最近、とくにかんがえています。某SNSがまだ青い鳥だったころ、デザインをはじめとして各種アートシーンや音楽領域において、魔女狩りのごとく、やれパクりだの元ネタだの吊しあげてからの大炎上……と。非人道的なおこないが日常化していましたが、それはそれとして。

デザインされゆくものごとは、環境や時代にわたしたちが即してゆくためのいとなみである以上、共通したプロセスや結果となることは、あたりまえにありえますし、普遍性をもつ「かた」として結実してゆくのは必然でもある。むしろ前述の魔女狩り集団は、近代における(そしてそのモードはすでに賞味期限をむかえている)個人主義あるいは革命史観に、いまだ引きずられているのだろうと想像できます。気の毒なはなしです。

そんなわけで「かた」や「典型」。工芸や音楽において、その本歌取りたる行為は当然のようにおこなわれているけれど、デザインにおいてはなにが該当するのか。最近はデザインワークの機会でそれを試みています。

丹野杏香『採集I 野山にて』(2024)

たとえば先日、たずさわった丹野杏香さんのイラストレーション集『最終I 野山にて』。あまり大型すぎない本……という作家の以降をふまえ、いろいろ検証してみた結果、ナンサッチプレスによる ‘Selected Poems of Alice Meynell’ (1930) の版型を採用することにしました。当時のイギリスにおける規格体系がよくわからないけれど、ひとまずミリメートル換算で算出。くわえてここで使用する本文サイズと行送りをQ数/歯送り設定で割り込み、最終的に幅130mm、高さ195mmとした。

左側: ‘Selected Poems of Alice Meynell’ (1930)  右側:  ‘The Lords Song’ (The Golden Cockerel Press, 1934)

こんかいの書物はイラストレーション集ですが、冒頭には丹野さんによる解説文がふたつ掲載されています。いずれも、みじかいパラグラフがつみかさなる詩的なテクスト。それもあって、こうして詩集の版型をトレースすることに意識がむかいました。じっさいのところ、版型にかぎらず本文組版もかなり参考にしていることになります。とはいえ、当時の英語と日本語では言語構造としてはもちろん、活字組版のかんがえかたも変わるので、そのあたりは適切に「意訳」をしてゆく必要がある。

くわえてもうひとつ参考にしたのが、エリック・ギルによる ‘The Lords Song’ (The Golden Cockerel Press, 1934)。極端な縦長判型は憧れるけれど、こんかいはそこではなく、組版やテクストと図版の関係など、おもに印象にかかわるところ。くわえてここでもちいられているのはギルによる活字書体Perpetua。

丹野さんの作風はイラストレーションながら、彫刻的であり装飾としてみることもできる。かねてからその仕事を拝見するなか、ギルと重なるものをみるおもいがありました。これを『最終I 野山にて』における活字書体として採用しました。わりとハマったんじゃないかと、個人的にはおもうのですが。どうでしょう? こんかいはこれをふまえ和文書体を選定してゆくかたちとなりました。

そういえば ‘The Lords Song’ さいごの一文はラテン語で——Laus tibi Domine !(主よ、あなたに賛美あれ)——と記載されている。このうつくしさたるや。ああ、タイポグラフィは、ほんらいラテン語を記述するためにうまれた技芸なのだな……と、つよく感じるものです。翻訳・意訳のできない Lost in Translation はどうしてもおこる。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか


余談ながら。ゴールデンコッカレルプレスにせよ、1920年代から30年代にかけてのザ・ナンサッチプレスは、個人的には本づくりのデザインにおいて、ひとつの到達点だとおもっています。いっぽうそれはイギリスの文芸文化と情報・産業技術が結実したものでもあることも事実。その塩梅をリアルタイムで——言語としても造形としても——翻訳していた寿岳文章の仕事は、ほんとうにすごいとおもう。


19 June 2024
中村将大
 

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