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Theaster Gates: アフロ民藝|森美術館

このしばらく、さまざまな場面で「民藝」ということばを目にするようになりました。いわば本流となる柳宗悦の系譜はもちろん、ことなる領域における援用まで。当事者たちの手をはなれ、それがひとつの「みいだしかた」と捉えられはじめているのかもしれません。

森美術館で開催されている『シアスター・ゲイツ: アフロ民藝展』。今回の展示にかぎらず、これまでのゲイツ自身の活動をみれば、たしかに民藝なるものをみいだすことができます。

民藝とひとことにいえど、そこには「もの」「運動」「思想」の要素が内包されています。陶磁器や家具、織物といった具体的なもの。それから啓蒙活動としての運動。そしてそれらの基礎となる思想。柳=民藝にある思想はやはり仏教的であり、それはおのずから日本の風土・文化に即しています。こうしたOSのようなところは、文化圏それぞれによって変化しながらも、そこに普遍性があることが、今回ゲイツの仕事をつうじて浮き彫りになります。

ドーチェスター・プロジェクトやアーカイヴ資料の収集・展示はまさに運動。それから建築素材を作品化した『基本的なルール』や『7つの歌』は、そこに美をみいだされたものといえます(このあたりの作品群は柳とゲイツのあいだに坂田和實をおくと、すっと溶ける印象があります。アーティストの友人は、もの派を想起していました)

個人的に印象ぶかかったのは、B3ハモンドオルガンとレスリースピーカー7機をもちいた『ヘヴンリー・コード』。この組み合わせから鳴らされる「あの音」の黒さ——Blackness——たるや。それはまちがいなくアフロアメリカンを象徴する「Voices」といえます。

レスリースピーカーは、その構造ゆえ原音と遅延音がまざり出力される。すでに重合した音色が7機連続することは教会的音響の再現ともいえるし、どうじにそれは彼らの複合の声を象徴しているのかもしれない。個という単位を超えた集団の声。そこには過去も未来も溶けている。

くわえて、その鍵盤をみればE音(ミ)が固定されていました。ブルースを象徴する調性。鳴りつづける通奏低音。ひとつの基音とリズムのうえ、さまざまなモードがレイヤーされ、溶け、そして循環してゆく。彼らにとっての民藝は、そのままブルースと言い換えることもできるのかもしれない*

‘ひずんだあたたかい ぼくたちのブルース’

ブルースと民藝。いずれもあるスタイルを示す言葉であり、どうじに脈々とつづいてゆくいとなみに「美」をみいだす行為であるのかもしれません。そうして、それぞれの神話がつむいでゆかれる。


余談ながら。本展や世田谷美術館『民藝 MINGEI』をみていると、いま民藝にある課題感のひとつに、テクストの翻訳があることがみえてくる。柳宗悦をはじめ当事者たちによる文章の翻訳や、海外講演時の記録はもちろん。この数年、一気に刊行された民藝関係の書き手によるテクスト。このあたりが、ほかの言語圏からもアクセスしやすくなってゆくといいなとおもう。

*余談ふたつめ。こうして、ひとつの通奏低音とリズムのうえで、さまざまなモードがレイヤーされ重合してゆくようすの音楽的ドキュメントが『In A Silent way』あたりのマイルス・デイヴィス作品だったのではないか。連続し循環する基音のうえで、演奏者それぞれの音楽的語彙が顕在化してゆく。それぞれのブルースを積層され、融解してゆくプロセスだったのかもしれない。


19 May 2024
中村将大

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