母への、父の追悼文

              靖子

それは自然なめぐり合いでした。

私は日本にいて、人生半ばのキャリアの岐路にいました。彼女は私が通っていた研究機関の図書館で働いていました。
その食堂の列で、なぜか彼女は私の目に止まりました。穏やかで、健康的で、知性的で。

彼女と話すことができました。彼女は泳ぐのが好きだと言ったので、仕事の後に地元のプールに行こうと誘いました。プールのあとはいつも決まって、近くの渋谷で焼き鳥でした。

彼女は大学で英語を学び、さらに学習を深めようとしていました。それなのに、自らを後回しにして、日本語に苦戦していた私を助けてくれました。それはいかにも彼女らしい優しさでした。−物惜しみせず、打算せず。

プールへの小旅行から、東京周辺の山や高原への日帰り旅行に足を伸ばしました。その次は奥多摩や秩父のより高い山の山荘への一泊旅行に。気がつけば、富士山のすぐ奥の、知られざる南アルプスの3000メートル級の山々に挑んでいました。

時にその登山は厳しく、危険でさえありました。でも彼女は決して文句を言わなかった。
彼女は戦前の時代に育ち(本州の北部、東北と言う地域で)、困難を受け入れることを経験してきました。大学を卒業して公務員試験に合格し、公的機関であるアジア経済研究所(通称「アジ研」、現Jetro)に入所しました。彼女の父は元炭鉱夫で、産業が衰退するとともに、当時の高校では一般的だった文法重視型の英語教師へと転身しました。
伝統を重んじる妻(靖子の母)とともに、4人の娘を育む中流的な家庭を築き上げました。

次第に、彼女は週末の山の冒険に対する私の好みを理解するようになりました。彼女は私に、”Yowane wo hakanai” (「弱音をはかない」)という言葉を教えてくれました。

私のアジ研での研究も終わりが訪れ、オーストラリアに戻って論文を書き、仕事を探す時が来ました。また日本に戻ってくるだろうか?戻るかもしれない。でも日本でまだ一年しか過ごしておらず、言語も文化も表面的にしか理解していませんでした。キャンベラには親友もいました。仮にオーストラリア以外の国で働くとすれば、若きころに仕事で過ごした中国やロシアのほうが理にかなっているように感じました。そして中国について言えば、香港を拠点にした良いオファーも実際にありました。

でも靖子は、私が日本と彼女のことを思い続けられるように、素敵な計らいをしてくれました。在日中、私は日本語を学ぶために「私たちの言葉」というラジオ番組を好んで聞いていました。主に高齢層の視聴者から送られる、人生にまつわる様々な問題についての手紙を読み上げる番組でした。靖子は毎週その内容を録音し、可愛らしい手紙(日本語での)とともにオーストラリアにいる私に送ってくれました。

オーストラリアでしばらく過ごし、自分の次の一歩を選ぶタイミングが訪れたとき、私は日本を選びました。

日本を離れた二年の間で、彼女は何も変わりませんでした。週末になると彼女は、私が東京の中心に借りていた家を訪れました。時間が経つとともに自然の成り行きで、彼女が住む郊外の家から、便利な早稲田の私の社宅に移りました。進歩的な考えの彼女は、「結婚は封建時代の遺産」と捉えていました。私の価値観も同じでした。私たちの最初の息子、段が生まれた時は多くの友人を家に招き、子供が始めて魚とお酒を味わう日本の伝統的な儀式、「お食い初め」を行いました。私たちにとって、息子の誕生を周りに知らせるには、結婚式よりもこっちのほうがはるかに自然な形に感じました。さらに、息子が母の国籍を受け継ぎ、苗字も「丹埜」を使うことが自然に映りました。

1975年に、政府の仕事でキャンベラに戻りました。靖子は国立大学図書館で日本分野の良い仕事を見つけました。一年後に政権が崩壊し、また日本に戻りました。私は上智大学での小さな仕事のオファーだけがありました。幸いなことに、靖子はまたアジ研に戻ることができ、私たちは何とか経済的にやっていけました。東京の四ツ谷近くに小さなアパートを借り、私は二年前に依頼されていた日本についての本の原稿を書き上げることにしました。

その頃の日本では、私のような外国人が日本をどのように見ているかについての関心の高まっていて、そのおかげでその本は私を大学の正規教授に昇格させ、メディアに毎日のように露出させました。そして、日本の端から端までを日帰りで移動しながら(時には途中下車をしながら)行う、講演活動という面白い世界にも踏み入れました。気がつけば、市ヶ谷に小さな庭付きの中古の戸建てを買うことができるようになっていました。

この頃に二人目の息子、倫(ロン)が生まれました。様々な新しい仕事で忙しくなった私は、アジ研の仕事をこなしながら二人の子供を育てている靖子の苦労を部分的にしか手伝うことができませんでした。それでも、彼女は決して文句を言わなかった。
私たちは子供たちをバイリンガルに育てようともしました。私が話す英語は「お父さんの言葉」、彼女が話す日本語は「お母さんの言葉」でした。

二人の子供の存在により、登山の冒険を続けることができなくなった私たちは、「自分たちの山」を探そうと決めました。東京からすぐ離れた房総半島の荒れた山林の中で。そこは完全に未開拓な土地で、水は谷の奥底を流れる小川からしか得られず、車の通り道もなく、電気もなく、山また山の景色しかない場所でした。
でもそれはすべて私たちだけのものでした。見渡す限り、かすかな他人の存在すら感じさせず。ほとんどの日本人女性が、そんな荒れて孤立した場所からは早く逃げ出したいと考えただろうと思います。でも靖子はそれが大好きだった。当の私以上に。

のちに、私たちはもう少し良い立地へと移りました。古くは畑だった場所で、家を建てたり、野菜や木を植えることができる地でした。私と同じく、彼女も自然農法に対する興味を持っていました。彼女は特に山菜集めを楽しんでいました。

アジ研での彼女の研究分野はアフリカの教育についてでした。その関係で、彼女はケニアのナイロビで一年、その後にロンドンで一年過ごし、そこでは子供たちをボーディングスクールに送りました。英語をしっかりと身につける、理想的な年齢でした。(10歳くらい)。そのおかげで、日本に戻った後、息子たちはアイデンティティや英語力を失うことなく、日本の高等教育へと進むことができました。

彼女は読書が大好きでした。毎週のように、私の仕事に役立てようと、日本語の記事や参考文献を見つけてきました。のちに、私は彼女の英語→日本語の翻訳の素晴らしい才能を知らされることになります。彼女の文章は明確で簡潔でした。彼女の翻訳のほうが私の原文よりも読みやすいという人さえもいました。彼女のもう一つの才能は絵画でした。古い建物、寺社、花や森の景色の、愛らしいスケッチの数々。

彼女の日常もまた素朴なものでした。房総の鴨川市近くの海岸の町、天津に買った古い家で過ごし、そこで友人の輪もできました。人は彼女の素朴さと、正直な魅力に惹かれました。大きなスーツケースにしまえるくらいしか服を持っていないのに、それでもなぜか、格式高いパーティや集まりに行けば、部屋の誰にも引けを取らないエレガントさがある、そんな女性でした。

猫が大好きで、東京に行かずに天津で過ごす使命感を感じていたのは、我が家生まれの22歳、老いたベンベンちゃんのそばにいてあげるためでした。

終わりはゆっくりと訪れました。

ある日、めまいのせいで天津の家の階段から落ちてしまいました。怪我を負ったにもかかわらず、一昼夜誰にも連絡せず、自分の足で近くの病院に行き、そこで肺炎と診断されました。その夜は近くの亀田病院で家族全員が集まり、呼吸に苦しむ彼女を緊張の中で見守りました。そして、本当の悪い知らせを受けました。血液検査の結果、彼女が白血病を患っていることがわかりました。

白血病は本当にひどい病気です。自らの血が体を死に追いやりながら、追加の輸血で回復に向かう希望を消し去ります。

私は彼女が転倒したときに一人にしてしまった自分を責めました。でも、その後の数ヶ月間、輸血の量が増えながらも、彼女はかたくなに「転んでいなかったら、私の病気自体が早い時期に発覚しなかった」と言いました。

悲しいことに、急性白血病は早期であっても治療法がありません。しばらく経ち、彼女は築地にある国立がんセンターに移らなければいけなくなりました。医者たちは素晴らしい処置を施してくれましたが、すでに病弱であった彼女の弱体化を止めることはできませんでした。この病気の最終段階では、血液が脳に漏れるようになります。ベッドのそばにいる時、彼女の意識を保つために、家族で昔の思い出を話したり、一緒に歌を歌おうと促したりしました。亡くなる前夜、彼女はか弱い声で、私たちと共に美空ひばりの心に残る名曲、「川の流れのように」を歌いました。

人生ではじめて、コントロール不可能な悲しみというものを経験しました。

同じ悲しみに、息子とその妻たちが開いたお別れ会でまた再会しました。
私がいつまでも愛する靖子の写真と共に、彼らはまたその歌を流しました。

“川の流れのように、知らず知らず歩いてきた、細く長いこの道”.....