読書メモ「わかりやすさの罪」〜「わかりにくい」から逃げず、寛容になれ

学生時代にブルーバックス「『分かりやすい表現』の技術」シリーズに出会って以来、わりとずっと、わかりやすく伝えるには、を意識しながら文章を書いてきた。でも、なんとなく限界的なももを感じている(わかりやすく伝えても人は動いてくれない、とか)。

そんな中、武田砂鉄『わかりやすさの罪』というタイトルだけに惹かれて買った本の中から、なるほどと考えたことが多かったので、メモとして残しておきたい。

NHKで出来事をきちんと伝える、わかりやすく解説するということはやってきたけれども、『じゃ、俺はどう思うんだ』と考えることがなくなっていたということを実感した(作中、池上彰『わかりやすく<伝える>技術』からの引用)

自分の考えをわかりやすく伝えるのは難しい。そもそも頭の中で考えるとき、わかりやすく考えることはない。感情的な部分とか、その日の気分とか、いろんなものの影響を受けている自分の思考が、理路整然としているはずがない。
わかりやすく伝えたいがために、思考の分かりにくい部分を除外していると、自分の考えることがなくなっていく感覚、これは本書の中で一番共感できた部分。

人の心をそう簡単に理解してはいけない。そのまま放置することを覚えなければいけない。理解できないことが点在している状態に、寛容にならなければいけない。(6章 理解が混雑する より)

ましてや、人の話であればなおさらである。どういう思考をしているのか一部しか見えていないのだから、わかりにくくて当たり前なのだ。

「理解もしていないのに、どうして理解のあるようなふりをするのだろう。それは自分の生き方に自身がないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか」(作中、河合隼雄『こころの処方箋』からの引用)
「どうしてこの私にわかるものを提供してくれないのか」という姿勢は「わかりやすさの罪」の最たるものだ。(1章 「どっちですか?」の危うさ より)

だから「わかりにくい!」と批判することは、自分で考えることを放棄している。わかりにくいものから逃げないようにしたい。

『分からない』という経験が、『分かり始める』という現象の始まりである(作中、批評家・随筆家の若松英輔のツイートからの引用)

ちなみに

タイトルの割に、この本の文章や論理はわかりやすいな、とスラスラ読んでいたのだが、

今回の章、とりわけ後半部分は、とってもわかりにくいと思う。何を言っているような何も言っていないような文章が続いた。(11章 すべてを人に届ける より)

と、釘を差された気分になった。

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