禁煙

十年前に店ができたときから好きだったカフェが禁煙になっていた。若い頃はバックパックを背負って世界中を飛び回ったとあるお兄さんが店主で、鉄道の高架下を借りてすばらしい調度と音楽と料理を揃え、コーヒーには一滴の嘘も混じっていない名店だった。大学に通いはじめたころに出来て、在学中はよく通った。仕事をはじめてからは私が転居を繰り返して足が遠のいたが、きょう近くの郵便局へ用事があって、昼飯はあそこでと楽しみにしていたら、禁煙になっていた。

多様性や分断やフェミニズムといった言葉は、あまりにもしばしば使われるので、擦り切れてしまったようだ。これらの言葉がもともと持っていたニュアンスは悪くなかったように思うが、人々の頭のなかを何回も通り過ぎるために、エフェクトをかけすぎた音源のように不明瞭になっている。ほんらいの意図をどうにか解読してみると、多様性は包括性であり、分断は想像力の欠如であり、フェミニズムはヒューマニズムであるようなのだが。

友人が持っている電子煙草を借りて喫したが、あれは煙草というより、ふかし芋の皮の部分ばかりを煮詰めた蒸気みたいだ。あれならまだニコチンのタブレットでも噛んでいたほうが、中毒者であることを正面から受け容れている感じがして潔いだろう。

どうも昔から優しい友人に恵まれていて、路上喫煙に罰金が科せられるような地域に入ると親切に教えてくれるのだが、最近は喫ってしまうことにしている。あまり往来が多いところでは火を持っているのが危ないから喫わない。人通りがまばらになった朝方の歓楽街などでは喫う。さすがに吸い殻のぽい捨てはしない。これだけ人類みんなで温室効果ガスをまき散らしておいて、自分の住むところだけはきれいにしておきたいんだな! などと皮肉なことを思いはするが、それはちょっとこじつけすぎる。

喫煙者が優勢だった時代には、なにがほんとうに迷惑なのかを考えずに喫っていた人間がたくさんいたのだろう。時代が進んで、そうした人間たちが煙草を喫わなくなった。そして、なにがほんとうに迷惑なのかを考えない癖だけは残った。これは仕方のないことだし、たぶん永遠にそうだろう。とはいえ、なにかが禁じられている時代は、なにかが許されている時代よりも堆積する火薬の量が多いので、爆発したときにたいへんな大事になるだろうと思う。そうしたときに最初に火の粉を被るのは、もちろん個人事業主たちである。あのカフェが生き残っていて、ほんとうによかった。

人気のない公園で煙草を喫っていると、しばしば他人が禁煙であることを教えてくれる(私の経験では、すてきな身なりの老紳士が多い)。私は「教えてくれてありがとう」と言って火種を消しながら、にっこりと微笑み、可能であればすこし天気の話などをする。もう友達のようである。そして彼が去ったあと、見上げた人もいたものだと感心しつつ、私は二本目に火を点ける。

そもそも私たちのほかに、公園に人はいなかったのだ。暖かな日ざし。風が葉を擦る音。なんということのない幸福な一日。

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