梟は闇に嘯く 10話

雑草が伸びては枯れてを繰り返した地面の向こう、廃工場はフェンスに囲まれてひっそりとそびえていた。周りに物流センターや食品工場が立ち並ぶなか、廃工場の一角だけが息をひそめたように生気を消していた。先導していたトーキが廃墟を間近にしながらもしばらくそれを目的の場所と認識できなかったのも無理はなかった。
「本当にここなんか自信ないわ」
トーキはフェンスの網目に指をかけて中を覗き込んでいた。
フェンスの内側には広い敷地が残っていて、工場は鉄骨造りで3階建てほどの高さがあった。閉じられた門からは工場へ繋がる車両用の道路の跡が残っていて、所々にパレットやら自転車が放置されている。誰かが捨てに来るのだろう。不法投棄の山ができていた。
「調べてきた住所と合うからここだとは思う」
すでに会社のホームページは削除されていたが、過去のネット記事から色々と情報を漁ることはできた。しかし事前に外観を見てきていても、枯れ蔦に覆われた工場はまるで別物だった。
「とにかく入ろう。間違ってりゃ出ればいい」
姫継は背負ってきていたリュックから毛布を取り出すと、端を持ったままフェンスの上へ投げるように広げた。干されるような格好になった毛布の上を姫継は先んじて乗り越える。
「こうすりゃ有刺鉄線があっても安全に越えられるだろ」
姫継がフェンスの向こうから自慢げに言ってくる。有刺鉄線はない。
「この前観に行った映画でやってたな」
トーキは無自覚のまま姫継のネタ元をばらした。
「なんならドラマでキムタクもやってたよ」
どちらから影響を受けたのかは知らないが、とにかくやりたかったらしい。姫継はむくれて黙ってしまった。
手持ちの懐中電灯で足下を照らしながら建物に近づいていく。舗装された地面には瓦礫がところどころ散乱していた。どこかの窓が割れているのか建物周辺になるとガラスらしきものが散らばっていて、キラキラとライトの光を反射した。建物の壁まで来て、どこか侵入できそうな場所は無いか光を当てながら探していく。
「おい」
姫継が焦った様子で指さす先には監視カメラがあった。
「終わりや」
トーキも悲壮な声を出す。
「大丈夫。あれはもう作動してないよ。赤い光がついてない」
監視カメラのカメラ部分は暗く沈黙していた。
そのまま壁伝いに進みながら扉を探していく。侵入するとなれば扉か窓になるだろう。幸い姫継が便利な毛布を持ってきてくれているから、割れた窓なんかがあれば簡単に入れる。そうして壁伝いに歩いたところで、ライトは見覚えのあるものを照らした。
思わず息を呑んだ。姫継も同じだっただろう。
「これ言ってたステッカーやん」
能天気な調子でいられたのはトーキだけだった。
まず鉄製の巨大な扉があった。フクロウのステッカーはその扉のすぐ隣、壁の低いところに貼られていた。ライトを姫継に託して正面からステッカーの写真を撮る。そして借りたままになっているUVライトで眼の部分を照らした。
「QRか」
「うん、調べないとわからないけど形的に2枚目のと同じだと思う」
「ステッカーはハシノ印刷に関わるところに貼られたってので間違いなさそうだな」
「こんな廃墟にまで」
駐車場、倉庫の自販機、廃工場、ここまでステッカーはハシノ印刷の名残りに貼られてきている。無差別に貼られたものでないことはほぼ確定した。
「ステッカー自体がメッセージってことは明白だ」
鉄の軋む悲鳴が響き渡った。トーキが鉄の扉に手をかけて引っ張っていた。
「開きそうや。ムーニー来て」
姫継が肩を入れてめいっぱい押すと扉はゆっくりと動き始めた。ふたりはそのままの勢いで扉を半分ほど押し開けた。
「重すぎる。人間用の扉じゃないぞ」
「トラックを入れるのに使っていたのかも」
扉を開けた際に扉が収納されるスペースは外側にあった。何気なく照らすと扉が進んでいくレール部が地面と比べて綺麗に見えた。レールは風雨と経年劣化で茶色く変色していたが埃や瓦礫が溜まっている様子はない。そのままライトを奥まで当てていくと、レール終点部に埃が波立つようにして溜まっていた。
「最近誰かが扉を全開にしてたらしい」
姫継もライトが照らす先を見て理解したらしい。
「今も誰か居ると思う?」
ふたりに聞いてみる。
「誰か居るとしたら静かすぎる。開けてたとしても今日じゃねえだろ」
開いたドアから廃工場の中へと入る。一歩足を踏み入れた途端、冷たい空気が中から外へ吹き抜けていくのを感じた。どこか屋根の隙間から月明かりが細く差し込み、白い光線を暗闇の中に降ろしていた。風が吹くと錆びた鉄が叩き合う音が響く。風は独特な鼻にツンとくる匂いを共に運んできた。
「親父を思い出す匂いや」
トーキは誰にでもなくこぼした。
天井パネルの崩れ落ちた跡や散乱したゴミを避けながら慎重に進む。進んでいくとがらんとした吹き抜けの広いスペースに出た。ライトで壁を照らすと線を引いたように色が変わっていた。変色のパターンは壁に繰り返し続いている。
「たぶんここに印刷機を置いていたんだ。機械の当たってる部分だけ劣化がなかった」
「さすがに機械はもう無いか」
「売りに出したんだろうね」
遠くから「階段あったでー!」と廃墟中に響く報告が聞こえてきた。
「このなかを一人で進んでいけるのはすごいね」
「馬鹿だから」
トーキが声を出す方向に進んでいくと扉があって、扉から中に入るとマットの敷かれた階段があった。壁際には靴箱があるが中に靴は残っていない。階段を進んで2階まで上がると「生産管理部」と書かれたプラスチック板が掛けられた部屋があった。トーキはそこに置かれた事務机に腕を組んで仁王立ちしていた。
「なにしてるの」
呆れているとトーキは闇の中に浮かび上がるほどにんまりして、自信満々に答えた。
「せっかくやから好き放題せな」
「遊びに来たんじゃないぞ」
姫継はトーキの立つ机を蹴った。
事務机は整然と並んでいた。どこにどんな役職の人が座っていたのか、なんとなくわかる。事務棚の中にはファイリングされた書類がそのままになっていて、事務机にはパソコンこそ残っていないものの本立てに挟まれた書類や筆記具が残っていた。散らばった書類の束がかつての繁忙を思わせた。
「夜逃げ同然てのは本当らしい」
姫継は苦々しく続けた。
「入れ物と無念ばっかり残ってる」
ぼくと姫継はパソコンとスマホを使ってハシノ印刷の情報をひたすらかき集めた。
グーグルマップのレビューから転職サイトの書き込み、創業者の名前から製品になる印刷物のカタログまで、そうして見えてきたのは凄まじい悪評の数々だった。ハシノ印刷は町の中でも歴史ある企業で創業は1950年代だった。前進となる卸売業から自前の工場を建てて印刷業を営むようになり、工場を複数抱えるまでの大企業に成長していた。基本的には親族経営で役員もほとんどハシノこと端野家が担ってきた。印刷市場の縮小と共に工場を減らしつつの経営とはなっていたものの2000年代に入っても従業員300人近くを抱える町一番の企業だった。ネットの口コミで悪い噂が目立つようになったのは社長が代わった5年ほど前からになる。些細なことから重大なものまで、いわゆる低評価のコメントがどの媒体でも散見された。転職サイトでは内部告発に近い実態が書き連ねられ、グーグルマップのレビューには「運転マナーが悪い」とか「用水路に廃油を流している」といった書き込みが並んだ。そして並行するように流れていた噂が労災隠しだった。従業員が働く中で事故をして怪我した場合には、労働災害となって企業が様々な補償をしなきゃいけないという法律があるのに、ハシノ印刷は従業員が怪我をしても労働災害に認定していないとする噂だ。そしてこれを時系列で追っていくと徐々に「人が死んでいるのを隠している」といった内容の噂に変わっていった。噂は当時のTwitterや地域掲示板で企業名を微妙に伏せながら広がっていた。しかし、ハシノ印刷のことを知っている人間にはすぐにわかる程度には仄めかされていた。
そうして3年前に、ハシノ印刷がホームページに載せた倒産のお知らせが地域特化型のネットメディアに載った。代替わりから約2年、悪評に次ぐ悪評からの倒産という流れになっていた。その倒産のお知らせを載せる記事のコメント欄にすら「社長が給料を持ち逃げして社員が路頭に迷っている」という書き込みがついた。
情報を集める作業は、次第にステッカーの持つ意味合いの輪郭を深めていくことにも繋がった。廃墟へ向かう前にぼくと姫継は言葉ないまま「ステッカーはハシノ印刷の悪評を絡めた明確なメッセージの意味がある」という仮説を抱いていた。
生産管理部の部屋内をぐるり見て回ってから、一旦部屋を出てさらに工場内部を探索することにした。さっきの階段を上るとツンとした鼻の奥を突いてくる匂いがしてきた。吸い続けているとクラクラしてきそうな化学みがあった。
「スプレーみたいな匂いやな。ていうかほとんど同じや」
階段を上がり切ると鉄製のラックが人ひとりぶんのスペースをあけて並んでいた。どうやら倉庫らしい。工場の屋根のほぼ真下まで来ているらしく、どこからか時折強い風が吹き抜けて鋭く唸った。ラック反対側には手すりがあって、そこから吹き抜けの下を見下ろすことができた。がらんとしたかつての作業場に月明かりの糸が漏れ落ちる。
ラックの隙間に入って進んでいくと先ほどの匂いが強烈に増した。ラックにはところどころ段ボールの小箱が残されていた。
「インクの匂いだろうね。溶剤を使うらしいし」
「喉が痛くなりそう」
ラックを抜けると簡易な仕切り板で仕切られた空間があった。更衣室かなにかだろうか。そう思いながら、ライトと共に中を覗いた。
「姫継」
覗き込む頭が3つになる。部屋には腰の高さのテーブルと機械が置かれていた。
近付きながら姫継は困惑を露わにした。
「機械は全部売ったんじゃないのか」
間近で機械にライトを当てる。調べた中に出てきたラベル印刷用のプリンター。埃ものってない綺麗な状態だった。
「たぶん隠されてたんだよ。もしくは持ち込んだか。埃が払われてるのがその証拠だよ」
膨大な仮説が浮かんでは否定されて、仮説は徐々に絞られる。初めてステッカーを見たときからそうだった。数えきれないほど仮説を立てて、数えきれないほど否定してきた。頭の中はとんでもない騒がしさになって、まとまりのない中で少しずつ状況は整理されてきた。しかしこの目の前の、廃工場にぽつんと置かれたプリンターに対しては、その煩雑なプロセスを必要としなかった。それは確信を伴う直感であったからだ
「ここで印刷したんだ」
「どうしてわざわざこんなところで」
「うん、まだそれはわからない。もうすこし探ろう」
さっきの生産管理部。あそこには色々と書類が残されていた。また生産管理部に戻るために刺激臭のラックを抜けようとしていた。その時だった。
「伏せろ」
姫継はぼくとトーキの肩を掴んで強引に引き下げた。尻餅をつく。頭上を光線が左右に動いて天井を照らした。姫継かトーキのライトだと思ったが、違った。ふたりのライトは地面を照らしていて、上を向いてはいなかった。
「誰か来てる」
姫継が囁いた。
ライトの光線はひとつやふたつではない。無数の光線が乱暴に暴れていた。
「逃げよう」
口から出た声が震えていた。声だけじゃなくて震えは全身に起こっていた。
「言われなくても逃げるよ。警察でも犯人でも厄介だ」
「どっから逃げるんな」
1階にはライトを持った誰かがいるから素直に降りていくことはできそうにない。かと言ってここにずっと座っていてもじり貧だ。
「2階に降りよう。さっきの部屋には窓があった」
3人で屈みながら階段を下りていく。自分の脚が自分のものではないみたいで、血液の通ってないみたいに感覚が希薄だった。なのに震えは止まらない。それがいけなかった。2階に降りたところでふらついて、大きめのガラスを踏んでしまった。亀裂が走って割れる音が派手に響き渡った。こっちだ! 下からいくつもの怒号が折り重なるみたいに響いた。
「やばいやばいやばい」
トーキが背中を押してきて生産管理部の部屋に倒れ込んだ。姫継が扉を閉めて近くの事務机を扉を塞ぐように倒した。
「どうしよう」
立ち上がるのですら必死でトーキが支えてくれる。
「あれは警察って感じじゃないな」
姫継はあくまで落ち着いていて慌てた様子はなかった。
姫継はリュックを開いて毛布をトーキに投げつけた。
「窓から出るぞ。それ持って飛べ」
窓から下を覗くと、地面は闇の中で果てしなく遠く見えた。背筋をひやり冷たいものが撫でおろした。足の力がまた抜けて、へたりこみそうになるのを窓枠に腕を突っ張って耐える。もう気を失いそうなぐらい怖かったが、近付いてくる男たちの怒号が辛うじて踏ん張る力を蘇らせた。
「高いの苦手なん?」
トーキが顔を覗き込んでくる。なんでこの状況でそんなに嬉しそうなんだよ。
「高すぎる」
「これぐらい飛んだことない?」
「ないよ」
トーキがにんまり笑う。
「初体験やな」
トーキは窓に腰を当てて回転しながら窓の外へ飛び出した。
トスッ、と小さな音で着地した。
「次は俺だ。後から来いよ」
姫継は先にリュックを下に投げた。
「無理だよ。逃げといて、ぼくはここで捕まるから」
「馬鹿か。相手が誰かもわからねえんだぞ。いいから来いよ。特別待遇で待っててやる」
姫継は両足を揃えて窓枠から飛び出した。姫継も無事に着地して、下で姫継がトーキになにやら指示を出していた。
全身が馬鹿みたいに震えながら、窓枠から先に右足を出す。乾いた風が吹き抜けていく。思わず強く窓枠を握りしめた。爪がアルミサッシを叩いてうるさい。瞬きすると涙がこぼれた。心臓が血液を大量に循環させるのが大ボリュームになって耳まで響いてきた。
怒号の主が扉を蹴破った。ライトに照らされて目を閉じそうになる。
「誰だお前ら」
男のひとりはドスを効かせて凄んだ。確かにこれは警官ではない。
「こっちに来い」
男がにじり寄ってくる。動けない。恐怖は体に一切の自由を与えなかった。
チラリと視界の下部に光る物が映った。見下ろすと光る膜があった。姫継とトーキが真下で毛布を掴んで広げていた。それがライトで照らされている。落ちてこいということらしい。視線を部屋に戻すと、男は間近まで接近しこちらに腕を伸ばそうとするところだった。
もうどうにでもなれ。
ぼくは闇の中へ倒れこむように落ちた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?