【目を疑う】国立近代美術館 生誕90周年画業60周年 ゲルハルト・リヒター展
2022.6.10
「目を疑う」
信じられない光景を見るという意味の慣用句であるが、慣用句的表現を無視してその言葉通りにとれば
「目を信じない」ということで、またちょっと意味合いが変わってくる。
美術館に絵を見に行く。
私が見てるものは絵なのか。
鏡なのか、ただのガラスなのか。
ただのインクなのか。木なのか。
目から入る視覚情報を見ているつもりになっているわけではないか。
視覚情報に整理された脳内の事象を芸術として見ていると自己満足してるのではないか。
目を疑いはじめるとブーンと展示室の天井の四隅に放り投げられたような感覚になる。
ゲルハルト・リヒター展はそんな感覚的幽体離脱のような、見てる自分を第三者が見ている、というような感覚に陥った。
不思議な鑑賞体験だった。
過去に起きた凄惨な事象の現場からインスピレーションを得て描いた、とされる作品はそのものを具象化されていないが後味の悪さ不穏さ感じることのできる人間の認識はなんなのか。
それともただのインクの羅列に後から意味をもたらし後は見る側、感じる側にまかせている?とも捉えられてしまうかもしれない。
(最も、作者は意味と意思を持ちその現場を描き、後世に残さねばならない、という使命も具体的な行動にもうつしている)
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この回顧展の前に新国立にきていたメトロポリタン美術館展で晩年のモネの睡蓮を見た時
(あ、リヒターじゃん)と思ったのだ。
いや、モネの作品なんですけど。
で、今回リヒターのある作品見た時に
(モネだな)
って思う。
本物の本人の作品を目の前にして作者ではなく違う誰かを思い出すというのもおかしな話だ。
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そして自分のリヒターとの初対面はどこだったか、をぼんやり考えると
東京都現代美術館の初期、90年代後半の常設展示室にいつもあったあれだな、と思い出すのだ。
記憶の中の常設展示室のリヒター作品も彼の絵のようにモヤがかかっているが、どの位置に展示してあってどれくらいの照明の明るさだったのかまではハッキリとおぼえている。
「モヤ〜としたことをハッキリ覚えている」文章にすると変なの 笑。
12/12追記
忘れられない展覧会2022 に参加致します
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