【鬼凪座暗躍記】-旅路の果て-『其の七』
――渓流のせせらぎ――澄んだ水――垂れ布をめくり、咽を潤すひとすくい――鳥の羽ばたき――木陰の人影――画帳を見せて微笑む男――巡礼装の若い男は……黄金の髪に七宝眼――いや、黒髪に黒瞳――劫族だ――怒声にもおびえず、こちらを見ている――啊、そうか。この男……どうやら、耳が聞こえないらしいぞ――
「……りさん……茅刈さん!」
懐かしい女声に揺り動かされ、【茅刈】は漂う記憶の闇間から、ようやく引き戻された。
「はっ……!」
同時に、おぞましい鬼畜の蛮行が蘇り、茅刈は硬直したまま、再び凍りついてしまった。
滂沱の脂汗、開いた瞳孔、わななく唇、小刻みに痙攣する指、邪悪な黒い影に覆われる体……彼が自我を取り戻したのは、さらに寸刻後だ。心配そうに、かたわらで見つめる女の眼差しが、茅刈を狂気の悪夢から、救い上げたのだ。
「茅刈さん、しっかりして!」
汗ばむ額を優しくぬぐう手弱女は、あでやかな黒髪と朱唇、大きな瞳が印象的な、茅刈の愛しい妻女・真魚――彼女に相違なかった。
不意に、悪夢の冥暗で垣間見た、巡礼男の柔和な笑顔が思い起こされる。
茅刈は身を起こし、周囲を見渡した。にわかには、信じられない。
そこは確かに我が家だ。
貧乏長屋の奥向きに位置する、せまいながらも心安らぐ若夫婦の城。
しかも、茅刈は元通り衣服を着ており、築地塀や岱賦……鬼畜につけられた傷跡もない。
部屋の隅には、商売道具の葛篭もある。
その上、目前には、夢にまで見た妻女の姿。
「啊っ、真魚! 逢いたかったよ、真魚ぉお!」
茅刈は、夢中で真魚の細身を抱きしめた。仄白い襦裙に、桜模様の薄衣をはおる真魚は、まるで天女だ。地獄の責め苦で、さいなまれ続けた茅刈にとって、女神より美しい妻だ。
「ねぇ、茅刈さん。一体どうしちゃったの? 大分、うなされてたみたいだけど……なにがあったのよ? 昨日は帰って来るなり不機嫌で、一言も口を利かず、床に就いてしまうし……疲れてるのかと思って、今までそっとしておいたけど……私、不安でたまらなかったわ。茅刈さん、旅先で、なにか嫌なことでもあったの?」
黄金の髪をなでながら、夫の青ざめた顔をのぞきこむ真魚は、憂いに満ちた表情である。
「僕は……昨日、ここへ帰って来たのか!?」
「ええ、そうよ。覚えてないの?」
困惑いちじるしい茅刈に、衒いなく答える真魚だ。茅刈は、彼女の言葉に悄然となった。
「だけど、僕は今まで……そうだ、なんで戻れたんだろう……あの廃村から、一体どうやって……弧堵璽や、白風靡族夫婦、それに、岱賦……いや、鬼畜は……どこへ……」
ブツブツと独語する茅刈に、真魚の懸念は、いよいよ増す一方だった。
そんな妻女の視線に気づき、茅刈は慌てて笑顔を取りつくろった。
身重の妻に、余計な心配をかけてはまずい。
「茅刈さん……まさか、記憶が戻ったの?」
「いや、ちがうんだ。なんでもないよ。多分、疲れのせいだな。酷い悪夢を見てたからね、すこぶる寝覚めが悪くて……哈哈。けど、真魚の可愛い笑顔を見れば、すぐ元気になるさ」
茅刈は、自分の肢をつねりつつ、もう一度、室内の様子をしげしげと観察した。
六帖間に箪笥と円卓、奥の厨には、夕餉の支度も整っている。
隣の寝所へ続く板戸は閉ざされ、衝立には、彼が着ていたなめし革の笈摺りが掛けられている。丸行灯は、壁板の節目やひび、土間のかまどや水瓶まで正鵠に映し出し、ここがまがうかたなき我が家だと、茅刈を納得させた。つねった肢は心地よく痛む。
〈夢じゃない……僕はいつの間に、ここへ!?〉
窓の外は薄暗く、時おり近所の顔馴染みが通り過ぎる。
すでに火灯し頃だと知るのは容易だ。
茅刈は、あらためて安堵の吐息をもらした。
〈すべて悪夢だったのか? それにしては、あまりにも迫真で不快な夢だった。いや、とにかく僕は無事、真魚の元へ帰って来られたんだ。あんな縁起の悪い夢、早く忘れよう〉
茅刈は、悪夢を振り払うため、愛する真魚を再度、引き寄せた。
真魚は一瞬、ためらったが、激しくもとめる茅刈に身を預け、唇をかさねた。
「茅刈さん、お腹空いたでしょう?」
「いや、夕餉はあとでいいよ。今は、君が欲しい」
「ねぇ、待って……茅刈さん、今夜は駄目」
さえぎる真魚を、今まで自分が寝ていた褥に横たえようとした途端、奥の板戸が開いた。
茅刈は瞠目し、真魚から身を離した。
「誰だ!?」
「夜分、畏れ入ります。お邪魔致しまして、申しわけありません」と、丁寧な言葉で己の不調法を謝る男声。悪人ではなさそうだが、衝立の影に隠れて、相手の姿はよく見えない。
「今日は兄さんの三回忌よ。それで兄さんのお友達が、わざわざ遠くから、法要に来てくださったの。云うのが遅くなって、ごめんなさい」
〈兄さんのお友達? そうか……彼女と山寺で知り合った日も、確か亡くなった兄上の七七日法要だったとか……今日でもう、三回忌か?〉
それにしては、妙な具合である。真魚が大切な年中行事――実兄の年忌法要を、今の今まで、茅刈に話さなかったというのも腑に落ちない。
真魚の兄は、画壇では、ワリと名の知れた墨絵師であった。
しかし三年前の春、新たな画題をもとめて出た旅の途中、突然行方知れずとなった。
その一年後、谷川付近で遺骨が回収された。
判官所役人の調べで、滑落し、動けなくなったところを、獣に貪られたことが判った。
但し、正確な死亡日時は判然とせず、三回忌というのも、二年前の遺体発見日から換算している。とにもかくにも、そんな非業の死をとげた人物なのである。
怪我で動けず、血の匂いに誘われた獣の餌食にされるとは……生前逢ったこともない義兄の死にざまは、茅刈を恐怖させると同時、遺族である真魚への愛情を、ますます強固にさせた。
法要は去年も行ったはずだが、果たして今日だったのか。いや、それ以前に、今日はいつなのか……記憶はアヤフヤで、どうもはっきり思い出せない。
なんにせよ、茅刈は衿を正し、端座した。客人がいるとは思わぬゆえ、体裁が悪いことこの上ない。客も居心地が悪そうだ。衝立の向こうで、咳払いしている。
真魚が起き上がり、その衝立をどかした。
すると……そこに立ち現れた人物とは――、
「弧堵璽!」
白髪まじりの男は、まちがいなく廃村で出遭った老猟師【弧堵璽】である。
さらに、奥の寝所から、見覚えのあるメンツが、次々と茅刈の前へ現れた。
白風靡族夫婦【龍樹】と【琉衣】……果ては鬼畜と化し、茅刈へ屈辱的な淫行を強いた、風来坊【岱賦】まで!
これでは丸っきり、悪夢の再現ではないか。
茅刈は絶句したまま、言葉も出ない。
なにを、どう考えていいかも判らない。
ただ、呆然と立ちすくむだけだ。
「あら、茅刈さん。ご存知だったの? そう、こちらが弧堵璽さん。それに龍樹さんと琉衣さんはご夫婦でね。岱賦さんは……身形こそ派手だけど、兄とは一番の親友だったのよ」
真魚は屈託なく、怪士四人を紹介し始める。
「また、お遭いしましたな……茅刈殿」
「その節は、どうも」
「なんだか、気恥ずかしいわ」
「悪いねぇ、お愉しみを邪魔しちまって」
四人の顔が、邪悪な殺意にゆがんで見えた。
「こんなことって……啊、嘘だぁっ! 俺はまだ、悪夢の続きを見てるんだぁぁぁあっ!」
茅刈の心は恐慌を来たし、崩壊寸前だった。
凄まじい雄叫びを上げ、ついに我が家からも逃げ出そうとする。
だが振り向けば土間に、もう一人……あろうことか、例の【緇蓮族】だった。
「ああ、啊……な、何故、ここがっ……!」
緇蓮族は無言で六帖間に上がり、偃月刀を抜き払った。渦巻く視界、波打つ世界。【茅刈】を取り囲むすべてが、不自然にゆがみ始めた。頭痛、めまい、吐き気、揺らぐ現実感。
窓の外でたゆたう芒、やけに淋しい月明かり。
「やめろっ……俺に、近寄るなぁぁぁあ!」
背後で含み嗤う怪士四人、前途に黒尽くめの殺手……【茅刈】は完全に往き場を喪った。
残るよすがは唯一人、真魚だけである。
「真魚! 助けてくれぇ! 早く俺を、この悪夢から……連れ戻してくれぇぇぇぇえ!」
茅刈は必死で、居室の隅に佇む真魚へ手を伸ばした。
ところが、愛妻の態度は冷酷だった。
「嫌だわ。なにをおびえているの。あなたの昔のお友達でしょう。ねぇ、【茅刈】さん」
あと少しで真魚の体に手が届く……そんな時、真魚の薄衣から唐突に、おびただしい桜吹雪が舞い上がって、茅刈の視界を覆い尽くした。
「真魚っ……真魚ぉぉおぉぉぉぉおっ!」
茅刈は闇雲に両手を動かし、懸命に桜の花弁を振り払った。
せまい長屋は、あっと云う間に桜色の海と化す。
白濁する意識、迫り来る黒い影……いや、白い遺影――男の怒声――打擲と淫虐――愛憎が同居する家――母親の死相――父親の失墜――拳の制裁は幼子へ――消せぬ罪業――追われた故郷――流転のすえに待つ地獄――放浪――孤独――負の情念――終わりなき煩悶――旅路にて――班犬の咆哮――娘の悲鳴――抑えきれぬ激情の顛末――老猟師の恫喝――うなる銃声――血まみれの凶刃――斬り離された左腕――放浪――孤独――負の情念――闇夜の逡巡――冷たい納屋――男女の享楽――閃く稲妻――母の面影――恋情のたぎり――男が叫び――断末魔の悲鳴――裸体――泪――約束は果たされず――迎えた最期は悲壮な決意――放浪――孤独――負の情念――消せぬ傷跡――遭難――山道に一人の男――次なる犠牲者――歯止めが利かぬ――忌地での虐使――白檀香――逆鱗は手綱――男の苦悶が快楽をあおる――黄泉路は近い――六道銭を奪い盗る――放浪――孤独――負の情念――束の間の安息――渓流のせせらぎ――山桜の花弁――静謐な湖水――咽を潤す澄明な景色――鳥の羽ばたき――木陰の男――画帳を片手に微笑する――散り急ぐ花弁――白く、白く仄霞む――春満開の桜日和――狂気に燃えて近づく殺意――笑顔が消えた――巡礼装――巡礼装――巡礼装――千早――千早。
「俺は、俺は、俺は……奴じゃないんだ!」
――茅刈川、千早振る精神、奔流する、千早。
「俺の名は……ぐわあぁぁあぁぁぁあっ!」
――弧堵璽、龍樹、琉衣、岱賦、緇衣、千早。
狂った過去、病んだ過去、死にぞこないの過去、黄泉還る過去、混乱の渦に激しくもまれ、再燃する激情、暴虐、煩悶、死に神の黒い影。
闇をまとい、死相を隠し、堂々巡りを繰り返す。
頭を押さえ慟哭し、せめぎ合う二つの心。
――黒い掟、愛情、贖えぬ罪、忘却、復活の時、巡礼装、千早、千早、千早、茅刈、死。
常軌を逸した手負いの獣は、地獄の底をのた打ち回り……【茅刈】は到頭、崩壊した。
「貴様らクズが! 寄ってたかって、俺をコケにしやがって! 残らず叩っ斬って殺る!」
白面美貌を狂気に染め、茅刈は獣の如く咆哮した。
これまでの、温厚な人柄はどこへやら……不穏な黒衣をひるがえし、過去の死に神を黄泉還らせた殺手は、偶然つかんだ〝なにか〟を振りかざし、ためらうことなく襲いかかる。
相手は弧堵璽、龍樹、琉衣、岱賦――いや、黒尽くめの緇蓮族殺人鬼――のはずだった。
「ぎゃあぁぁぁあっ!」
手応えがあった。悲鳴が上がった。
鮮血がほとばしった。茅刈は我に返った。
目前で、袈裟懸けに斬られ、くずおれて往くのは、巡礼装で身をつつんだ若い劫族男だ。
手から、血染めの画帳がすべり落ちる。
「こ、これは……一体……」
記憶の闇間で見た、あの光景が黄泉還る。
ー続ー
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