スケートボードと破壊の関係を「動作の常識」から考察する

常識とはなんだろうかというよくある問い。

日常生活で使われるものでスケート・スポットになるのはベンチ、階段、手すりなどがある。ベンチは腰かけるもので動作の中心となる身体の部位は足腰だ。背もたれのないベンチであれば上半身に焦点が当てられることはあまりない。階段は脚が中心となり手すりはもちろん腕と手だ。これらの道具には、休息するためや昇り降りするためなどの「つくられる目的」となる行為があり、その行為を遂行する際に中心となる身体の部位に合わせ発展した。ベンチがなく地べたに座るときは全身を使い腰を下ろす。急な斜面を登るときは滑り落ちないように脚で踏ん張り太ももを大きく上げる。手すりがなければ周りにある何かを掴み腕で身体を引っ張り上げる。道具に与えられた意味とは、遂行する動作を効率化・軽減するものでありその方向に発展してきた。適切な道具とは目的を遂行する際動作の中心となる身体の部位に焦点を当て分化し、無意識のうちに適切な動作に導く。

効率のよい動作を遂行するためには、日常生活の一つ一つの姿勢・動作において、またそれらのその一瞬において、適切な感覚情報の入力とその受容が必要である。
~中略~
手の巧緻動作をおこなうためには触覚が必要であるが、触覚だけではコントロールできない。操作をおこなう対象の情報が適切に認識され、それに基づいて操作時の手の形や力の強弱をコントロールしなければならないが、これらは無意識にておこなうことが多い。これらのコントロールをおこなうためには、体性感覚野が重要な役割を持つ。操作の器用さは繰り返しの運動学習や経験で増すことができる。過去の経験と照らし合わせることで、さらに円滑な動作が遂行できるようになる。
引用:後藤淳『感覚入力における姿勢変化』P6、7
特集 再考 理学療法基本技術 関西理学10:5-14, 2010

身体はものを使う際、無意識に微妙な力加減ができることにより細かな動作が必要なものでもスムーズに使うことができる。このような能力のおかげで体力や時間などを無駄に浪費することなく生活できるが、社会はそれを反映し必要最低限の力でスムーズに使うことができるものを良しとしている。重量が1kgもあるハサミが「非常識」であることは「常識」だし、座面の高さが地面から10cmしかないベンチが「非常識」であることも「常識」だ。この「常識」は身体のサイズや文化生活習慣によって自ずと決定されていく。例えばお箸は日本、中国、韓国では長さや材質が異なる。日本人にとってのお箸の材質の「常識」は鉄とはいえない。欧米式の生活習慣に馴染んでいる人にとって膝位の高さのものはイスのイマージュが浮かんでくるが、イスを使わずに地べたに座る生活習慣の人はテーブルのイマージュが浮かんでくるかもしれない。ものがつくられるときの理由は生活に必要だが存在しない、あるいは存在していても不便なためつくられることが多い。

人間は身の回りにある道具を繰り返し使用することによって身体が道具に合わせられていき、やがてそのサイズ、重さの道具を使うことが「常識」になっていく。なにか不便があれば少しずつ変化させていき、10年20年と経った時その「常識」が変化していることに気が付くだろう。「常識」を変化させるものは制作者の頭の中で発生するものかもしれないし、過去につくられたものが変化を促すのかもしれない。

ベルクソンの身体図式、ポンティの運動図式に代表されるようにこれらの人間の効率的で円滑な動作を生む感覚と、その感覚とうまく相互作用するようにつくられたものとがかみ合うことで「この道具はこのように使うことが当たり前だ」というような「動作の常識」が生まれる。そこには行為を遂行するという目的とそれを効率よく果してくれる適切な道具があり、非効率な道具は排除されていくため結果的に「この行為をするにはこの道具を使うことが当たり前だ」と無意識に思うようになる。

ベンチ、階段、手すりの使い方をいちいち考えながら使う人はいない。無意識でも使えることは「動作の常識」によるものだが、無意識でも使えるということは、無意識に「動作の常識」に従ってしまっているということだ。

スケーターはその「動作の常識」の外側にいくことができる。

休息のためのベンチには腰かけずに上に飛び乗り、昇り降りするための階段を一段ずつ歩かずに一度にすべてを飛び降り、転ばないための手すりでも上に飛び乗り「与えられた意味」に従うことなくスケート・スポットとして遊ぶことができるのだ。

駅の改札が右利き用につくられていることからわかるように、ものに「与えられた意味」に従う「動作の常識」とは個人の使い勝手をふまえた上で社会を効率よく回すための多数の感覚の集合を土台として成立する。またものを使うことに限らず社会をうまく回す際の輪郭とはルールと考えられ、多数が極力問題が起きないように生活するため守らなければいけないのものである。それら「動作の常識」の範囲内でルールを守り生活することで社会一般的な概念が生まれる。

スケーターはスケートボードをする際この「社会一般的な概念」よりも、もう一つの「スケートボードの概念」が優勢にることで多少なりとも常識から外れたしてはいけないこと(ベンチの上に飛び乗りフチを削ってしまうことなど)をしているという自覚を持ちながらスケートボードをする。
この二つは矛盾を抱えたままスケーターの中でバイロジック(復論理)として存在している。

この二つは対立し合うものではないし、コインの裏表のようにどちらか一方だけが顔を表すようなものでもない。常に両方が存在しそのとき置かれた状況のなかでふたつのうちどちらが優勢になるかで行動原理が変わってくる。


スケーターは「与えられた遊び」を破壊し、自分たちで遊び方をつくってきた。

破壊してしまうのは滑るためという純粋な理由があるが、その破壊とは極わずかな物理的な破壊と「与えられた意味」を読み替えることに表れる「概念の破壊」である。プールやベンチ、花壇を使って滑ることは「与えられた意味」を読み替えるというものの使い方の概念の破壊である。公園などの使い方を読み替えて滑ることは与えられた遊び道具と空間の破壊であり、その行為には「与えられた遊び」でそのまま遊ぶという生真面目な現実から逃れ自由を手に入れた喜びがある。そこには先ほど述べた多少なりともしてはいけないことが含まれることもあり、ときに「自己主張の粗野で乱暴な諸形態」としてあらわれる。

突然人をとらえる忘我の激情がそれだ。この眩暈は、ふだんは抑制されている混乱と破壊の好みに容易に結びつく。それは、自己主張の粗野で乱暴な諸形態なのである。
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P62-63

スケーターがスケートボードをする中で破壊に注目することは一般的にみられる傾向である。滑る際にベンチや花壇などを多少なりとも破壊してしまうため滑る楽しさと破壊が結果的に結びつくのだが、破壊をすることやそれを見ることはほとんどすべてのスケーターが好意的な感覚を持っており、スケーター特有の感覚を表すもののひとつとして数えることができる。なぜかというと、スケートボードの映像では意図的にものを破壊するシーンを挿入させることが多いのだ。それは序章が本編を展開させていく役割を持つように、破壊のシーンはこれからスケーターが「与えられた意味」や「概念」を破壊していくことを予感させる前触れとしての役割を持つ。その序章は規則に縛られた現実の世界と遊びの世界の境界を破壊し、遊びの世界に足を踏み入れる為の儀式とも考えられる。またスケートボードの世界の余韻を残す役割も持つのだ。

例えばおもしろいというだけで工場の屋根や二階の窓から落とされるテレビやパソコン、理由もなく叩き割られる廃屋の窓ガラス、爆竹を巻き付けられ爆破される人形。様々なものが破壊され、それらはスケーター自身がスケーターらしさを表現する手段として使われる。

ところでスケートボードにはストリートともうひとつ、フリースタイルがある。フリースタイルからは破壊することをおもしろがる感覚は生まれないが、それは滑ることの楽しみと破壊が接続する媒体がないことによる。

ストリートを滑るスケーターは破壊行為にどこかスケートボードを感じるが、これは滑るなかでスケート・スポットを破壊してきてしまったことや「社会一般的な概念」を破壊してきたこと、決まりきった与えられた遊びを破壊し新しい遊びを創造してきた楽しみを身体で知っているから面白味を感じてしまうのだ。もちろん純粋に破壊行為をすることは許されるものではないしそれを求めてやるべきではない。せいぜい映像の序章などのためにコントロールした環境で行うぐらいにとどめておくべきだろう。

スケートボードは概念を破壊することでスケート・スポットを発見し発展してきたのだ。

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