『路上の言語』Skateboarding is not a Sport 2

なぜサーフィンの模倣から始まったスケートボードは、誕生から5、60年程経って世界中に広まり、多少の誤解を含みつつオリンピックの種目に選ばれるほど人気が出たのか。

ところで遊びは、何かイメージを心の中で操ることから始まるのであり、つまり、現実を、いきいきと活動している生の各種の形式(=人間活動の一形式としての遊び)に置き換え、その置換作用によって一種現実の形象化を行い、現実のイメージを生み出すということが、遊びの基礎になっていると知れば、われわれはまず何としても、それらイメージ、心象というもの、そしてその形象化するという行為(想像力)そのものの価値と意義を理解しようとするであろう。
引用:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』P22

サーファーは陸地でも波に乗ることを求め続け、波のイメージを心の中で操ることができた。陸地ではサーフィンができないという現実を、バンクやプールを発見し利用することで海の中にいるときのサーフィンの形式に置き換えた。その置換作用は現実の(波のイメージの)形象化によりプールを波に置き換えたことである。ホイジンガは遊びと呼ばれる「特質」は日々の雑多な生活の中でのできごとと同じ形式の中に組み込まれているが、その「行為」は日常生活とは異なるものとしてあらわれると述べている。これは日常と地続きの感覚から生まれた遊びが行為として現れるときには日常生活の枠のなかからはみ出るということだ。遊びを生む感覚は日常のどこにでも存在しさまざまなものは「遊び」に変えられる可能性を持つが、遊んだとき既にそこは現実の世界ではなく遊びの世界なのだ。

要するに、子供が何かを表現するということは、本物でないものを本物と考えて、見せかけの現実化をすることである。ものごとを形象化して、イメージの中で思い浮かべたり、表現したりすることである。

彼らの場合には、二つのものの統一ということは、実体とその象徴的イメージのあいだの対応関係よりも、はるかに深遠であり本質的なものである。それは神秘的統一なのである。その一方のものが他のものに「なる」のだ。
引用:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』P43、P67

これは棒馬の項で述べたことだ。馬ではない棒を本物の馬と考えて、見せかけの現実というごっこ遊びをした。このことが可能になったのは求めるものの概念的イメージを思い浮かべ、代替物を求めるものの象徴とする関係があった。ここでホイジンガはレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』を参照している。未開の民族が呪術の舞踊でカンガルーに「なる」点を引き合いに出しているが、人とカンガルーが「統一」されるこの点は抽象を可能にさせる思考と共通する部分だ。子供は抽象の思考によりさまざまなもので遊ぶことができる。現実の世界にある遊び道具を媒介に、これを抽象化し頭の中にしかなかった遊びの世界と現実を「統一」させ遊びの世界を現前に出現させるのだ。

実体と象徴としてのイメージが適合するかどうかよりも二つのものを統一させることが重要なのは、統一させることこそが目的であり、その目的なくしては適合することはないし適合しても意味がないからだ。統一させることが求めることであり成し遂げられなくてはならないことだ。例えば子供のごっこ遊び。やる意味など考えずに気持ちの赴いたまま手に持った石を車に見立て足元をドライブする。石が車に「なる」ことによりそれを使って「遊ぶ」ことができるようになる。遊べさえすれば車になるものはなんでもよく、もしまわりに何もなければ片方脱いだ靴が車になるかもしれない。この点は呪術の舞踊で人がカンガルーになることが重要な点と対応している。また、これはサーファーが波を求めプールを波に見立てたこととストリート・スケートで建築物をスケート・スポットとすることも同じで、波とカーブ(carve)を求めプールと建築物が求めるものに代わっただけだ。そこで滑れることが重要なのだ。

俗に「問題はおはじき玉じゃない、ゲームそのものだ」という言いまわしがあるが、これがはっきりとそのことを物語っている。言い換えれば、この行為の目的とするところは、後にくる結果とは直接の関連がなく、まずその行為の経過、成行きそのもののなかにある。客観的事実としての競技の結果いかん、そんなことは少しも本質的なものではなく、どうでもよいのである。引用:ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』P117

スケートボードをする目的は「楽しい」からであって、それ以外の点を取ったとか勝ったとかいう競争めいたことは「楽しい」ということにくっついている付属物に過ぎない。その付属物が楽しいと感じることももちろんあるが、点を取ることや勝つことが「楽しい」を越えてしまってはスケートボードの本質から離れてしまう。

石を車に見立てる、バンクやプールを波に見立てることは、それぞれ求めるものが実際にあると仮定した世界を頭の中でつくり出し、その頭の中の世界と現実世界とを代替物を抽象化により象徴としつないでいるのだ。象徴の機能はあらわすことだ。

模倣と幻想の遊びは演劇を予告している。
組立ての遊びというのはつねに空想の遊びである。
引用:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』P23、P73

カイヨワは模擬の遊びをミミクリという言葉で定義している。ミミクリという言葉で定義される遊びは演技や模擬とされているが、この言葉は空想を元に様々なものをつくり出しそれらを寄せ集め一つの世界をつくり出すことまでを含んでいる。

カイヨワはこの模倣の遊びを含め遊びを四つに分類し、さらに四つの遊びをふたつの極に分けている。これらの四つの分類は完全に分かたれるのではなく他の遊びから影響を受ける関係にあり、さらにそこにふたつの極の分け方が影響してくる。

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