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再び、大西つねきさん「命の選別」発言批判 ① ――― 立憲主義の立場から

再び、大西つねきさん「命の選別」発言批判 ①
――― 立憲主義の立場から

白崎一裕

これから、書くことは、大西さんやれいわ新選組への揚げ足取りや悪意のある中傷ではないことを断っておきたい。私は、今回の大西さんのご発言をめぐっておきたことは、とても重要な政治思想的問題提起だと考えている。アメリカでは、Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)運動により、ポリコレ的に、言論空間が閉鎖的になってきてしまっているという批判がある。いまの自分に、詳細なアメリカの状況を分析する能力はないので、あくまでも伝聞にすぎないが、今回の大西さんのご発言を、ポリコレ的な狭いところにおしこめて、本人が除籍になったのだから、それでもうおしまい、ということにしたくないのだ。
自分たちが、主体的に政治を考えるために、あえて発信してみたいと思う。

私が7月8日に、「大西つねきさん「命の選別」発言批判」を書いてから、今日まで大きく事態は動いた。結果として、れいわ新選組の総会が開かれ、大西さんは除籍ということになり、17日の夜に、大西さんは、この間の経緯などを説明する記者会見を開いた。この記者会見で読み上げた文章は、すでに、HPにアップされているので、読むことができる。
https://www.tsune0024.jp/blog/7-17
 大西さんは、れいわ新選組総会の席上、最初の「命の選別発言謝罪と撤回」を翻し、その判断を「撤回」された。このことを聞いたときに、私は、除籍は当然のことだろうと思った。また、それが、本人の「離党届受理」という形になっていたとしても、結果としては、同じことだと考えた。その理由は、「撤回」ということで、大西さんとれいわ新選組の、それぞれの「政治的立場」および「政治思想」が明確に違うということが宣言されたと考えたからだ。除籍でも離党勧告でも、本質的な違いはないと思う。
 現在のところ、上記の両者の違いは決定的と考える。ここをあいまいにして共に同じテーブルで政治活動をすることは論理的に不可能だ。これは、粛清でもなんでもない、基本的な政治的思想の違いから袂を分かったということなのだ。もちろん、れいわ新選組が、「NPO政治研究会」のような研究団体なら、主義・主張の違う者が、同じ団体に所属することは可能だろう。しかし、一定の政治思想の旗を掲げて、それに沿う行動をする政党の場合は、きわめて難しいと考える。
 上記のことは、大西さんご自身も自覚されているのではないか。

 ここにいたるまでの、大西さんに対する「レクチャー」や総会は非公開となり、私の望んでいた公開ではなかったが、ここまでの、記者会見や総会参加れいわ構成メンバーのチューブ発言、そして、先に述べたように大西さん自身のHPアップ意見などを総合してみると、限りなく「公開」に近い形の言論空間を作り上げることは可能なのではないかと思い、まったくの非力・無名ながら、そこに私も参画したい。
なぜ、私が「公開」にこだわるかというと政治的公論というのは、以下の三つの原則が重要だと思うからだ。この三原則は、思想史家の関曠野さんに学んだことだが、次の三点である。「公」の意味する基本的要素とは①、万人に関わる共通性 ②、万人が見聞きできる公然性 ③、万人がアクセスできる公開性 である。今回の大西さん発言の内容は、この三つの条件にからみ、すべての人々が議論するべき「公的課題」だと考える。

 ここからは、私なりに、大西さんの発言を「立憲主義」の観点から検討してみたい。
 まずは、大西さんのHPにアップされた7月17日の記者会発表文章をあらためて読み直してみよう。大西さんは、そのなかで、「命の選別」という言葉を使ったことを、反省していて、次のように書かれている
「確かに今回、私は政治家にはあるまじき言葉使いをし、それによって恐怖や不快な思いを感じられた方がたくさんいらっしゃったことはよくわかります。その点については深く反省し、今後細心の注意を払いたいと、これは本気で思っております。」
 ただ、この前段で、次のように言ってもおられる。
「私が『政治家が命を選別しなければならない』と思わず言ってしまったのは、このように命の選別になりかねない考えも恐れず発信し、場合によってはそれに賛同する人々の負託を受けて、代理人とし実行する仕事であるということです。それを政治家が尻込みしていて、他に誰ができるのか、と言う話です。」(強調部分引用者)

 これらの部分を私なりにまとめると、大西さんは次のように主張されたいのだと思う。
「「命の選別」という言葉はまずい表現だったが、その趣旨は、「命の選別になるかもしれない」考えを発信し、それを実行するのが政治家の仕事で、その覚悟をもって政治家は仕事をしろ」ということではないか。
 ここで、考えなければならない重要な論点は、

「命の選別になりかねない」ことを政治家が、国民(人々)の代理人として実行することが許されるのか?ということである。

ここに大西さんとれいわ新選組の国会議員である、木村栄子さんたちとの大きな違いがあると私は考えている。

 このことを考える前提として、大西さんご自身の思想を見直してみよう。大西さんのご著書『私が総理大臣ならこうする』のp215に「何のために生き、死ぬか」という小見出しのついた文章がある。重要な箇所なので、すこし、長くなるが全文引用する(強調部分は引用者)。

「(前略)―― 皆さんは今、何のために生きているでしょう?その答えはそれぞれだと思いますが、少なくとも私は、人は生きるために生きるのではないと思っています。ただ生き延びるのが目的ではなく、限られた生の中で何をするかが大事だと。一人ひとりがそれを真剣に考え、自分の人生において大事なことを突き詰めれば、やはり同じ価値観を大事にする社会や国で暮らしたいと願うはずです。そういう個々の考えを集約したものが国家の方向性であり、それが国の形を作る。――(後略)」

上記、引用した、前半の傍点部分と後半の傍点部分をよく比較していただきたい。前半では、人は「それぞれ」だと思う、といいながら、後半は、「同じ価値観、集約したものが国家の方向性を作る」という。ここが、大西さんの政治思想のひとつの特徴(パターン)である。
17日の記者会見でも同じ思考パターンが随所にみられる。この思考パターンをあえて、まとめると「信条は、自由主義」しかし「結果は、共同体主義」という二元的構造である。
これは、政治論・国家論としては、きわめて問題がある。現在の立憲主義国家では、大西さんの言われる「同じ価値観の集約が、国の形をつくること」を憲法で強く制限している構造になっているからだ。そして、それは、歴史的に重い意味をもつ構造(システム)でもある。
 大西さんが主張する、「政治家の仕事」を実行するためには、かならず国家権力の行使が伴う。その権力行使は、大西さんという政治家が「正しい」ないしは「正しいと思われる」考えの人たちの「代理」で行使できるというものではない。権力行使を根拠づける法律は、憲法に照らして憲法にそうものでなければならない。

その憲法には、どのように書かれているだろうか。

日本国憲法第13条 
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

そして、日本国憲法と同等の価値を持つとされる、
国際人権規約の自由権規約では
第6条 1、すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。恣意的にその生命を奪われない。

また、国際人権規約の発展形でもある、障害者権利条約では
第10条 生命に対する権利
 締約国は、すべての人間が生命に対する固有の権利を有することを再確認し、また、障害のある人が他の者との平等を基礎として当該権利を効果的に享有することを確保するためのすべての必要な措置をとる。

第17条 個人のインテグリティ〔不可侵性〕の保護
 障害のあるすべての人は、他の者との平等を基礎として、その身体的及び精神的なインテグリティ〔不可侵性〕を尊重される権利を有する。

これらの基本権は、それぞれ「生命に対する固有の権利、個人の自由・尊厳は、憲法による国家権力により保障される」ということを言っている。ここでは、まさに政治(家)が、「生命の選別」をすることの「権力行使」を強く制限・禁止していることを表していて、「命の選別」へのダメ出しをしている。
  
このことを、大西さんの著作に即して解説してみよう。
大西さんのように「死の恐怖を克服して生に執着しない」人間も、私のように「意気地がなく、いつまでもダラダラと生に執着する」人間も、どのような「信条(価値観)」の持ち主も、個人として生きていくことが保障されているのが、基本的人権の保障をうたった立憲主義国家ということである。
再度、くりかえすが、大西さんの論理は、この点において矛盾している。
17日の記者会見でも、
「そもそも人に優劣などないように、この世に正しいも正しくないもないと思います。全ては主観です。正しさはそれぞれの心の中に持っておけばいいですが、それ持ち出して振り回せば、他の正しさとの戦いになります。そんなことをしていては一ミリも前に進まない。私は自分の正しさを主張して戦うつもりはありません。それは一人ひとりが自分で決めればいい。でも、自分の考えにしたがって自分であり続けることはやめません。それをやめてしまったら、私は、自分は生きていることにならないと思いますから。」
前半では、個人の正しさは、その人次第で「自由」といいながら、ご自分の考えで自分であり続けることはやめない、と言われている。一見ここは、相対主義で「あなたは、あなた。私は私」といいながら、政治的活動ではご自分の正しさを主張するわけである。
図式化すれば、以下のようになり、⇒部分に、論理の飛躍がある。
「それぞれの個人尊重」⇒「大西共同体への参加要求、すなわち大西さんの自己主張」

先に述べた、憲法や国際人権規約の条文は、これまでの歴史のなかで、無数の「正しさ」のぶつかりあいの中から、一般化され吟味された言葉の結晶である。まさに、これらは、ルソーの「社会契約論」でいうところの「一般意志」の一表現ということになろう。
この歴史性を無視して、政治の場での権力行使は許されない。政治的言論空間では、「あなたは、あなた。私は私」という相対主義は、欺瞞だと思う。やはり、個別の正しさ(個別意志)をぶつけ合って、議論して、みちびきだした「一般意志」が政策として法となり、そのもとで権力行使され政策が実行されていく。
(ルソー著『社会契約論』第三章 一般意志と全体意志の違い)

再度、議論をまぜかえすが、大西さんの17日の記者会見を援用すれば、こう言われるかもしれない。「どんな政策でも、命の選別につながることをしているのだから、ことさら、私の問題提起を危険な思想とレッテルをはるのはおかしいではないか?」と。
しかし、ここは、大西さんのご発言をあいまいにしてはならないと思う。コロナ禍のなかで、明らかに、大西さんは、コロナ対策も含め、高齢者介護、終末期医療、世代間格差などにつながる問題意識をもたれ、それを「命の選別」という表現でまとめたのだから、それは、一般的な「政策」とは区別して議論されるべきである。

 大西さんとは講演会等の共同の企画を通して、本当に、すばらしい金融・経済政策と高い政治的志を持った方だと尊敬してきた。だが、完璧な人間など、私も含めて存在しない。
 大西さんに、まず、欠けているのは、いままで、私が書いてきた「権力論・国家論」のデリケートな論点ではないだろうか。

 この論考は、長くなるが、続けていく。次は、大西さんの発言は、優生思想なのか?ということ。そして、高齢者問題や終末期医療の問題なども考えてみたい。
(2020年7月20日記)

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