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2019年の回顧録 プロ政党政治の終焉ホイッスルを鳴らした「れいわ新選組」

● 以下の文章は、2019年夏の「れいわ新選組ブーム」に沸いた参議院選挙の際に、フェイスブックに投稿した文章だが、いまでも有効なところがあると思うので、一部改変して採録する。その後、与党も首相の顔を変え、大阪都構想の住民投票などもあったが、「政党政治とは何か?」「民主主義とは何か?」「直接民主制の可能性は?」と問題の根っこは何も変わっていない。持続して考えていかなければならない課題だと思っている。

2019年の回顧録 プロ政党政治の終焉ホイッスルを鳴らした「れいわ新選組」  

                                                                                                          白崎一裕

やすとみ歩さんの「内側からみた『れいわ新選組』」というエッセイはなかなか興味深いものであった。
https://anmintei.net/a/688
ここで述べられているのは、私なりに強引にまとめれば、プロの政治集団としてあたりまえとして存在している(いた)「政党」なる存在についての、その「終わり」についての論考である。

ちまたでは、山本太郎旋風が、左派ポピュリズムか、はたまた、ポピュリズムそのものかどうかなどという「空論」「ゴミ論争」でにぎわっているが、そんなことはどうでもいい。

いま、私たちが考えるべきは、「政党政治」なるものの終焉の予感とその後の世界である。
ここで、いささか、古い文章になるが、思想史家の関曠野さんの「なぜ政党制度は空中分解するのか」(『国境なき政治経済学へ』社会思想社、所収)という秀逸なエッセイを紹介しておきたい。私のこれから、書くことは、すべてここから学んだものにすぎない。

 この論文は、ハイデガーがなぜナチに加担したかの論争において、「哲人王、ハイデガーに欠けていたのは、政党なるものへの認識である」にはじまり、政治哲学が政党に無関心であったこと、そして、政党は、工業化社会(経済成長)と共に発展してきたこと、その工業社会が終わりにむかうなか、政党政治も空中分解をしていくことなどが、世界史・思想史的考察をコンパクトにまとめて論じられている。その結論は、スイス流の直接民主制の評価と共に「今日では巨大で複雑な社会を統治する国家の能力は大きく揺らいでおり、ゆえに分権化とアマチュアリズムと市民参加が火急な問題となっている」「ラディカルな自然法論に立った政治のアマチュアとしての市民による「下からの」憲法制定運動から始まるであろう」という結論が述べられている。

 こんどの「れいわ新選組」の動きは、やすとみさんが言われるように、その立候補者の顔ぶれの「プロ政党ではない雰囲気の」オーラだろう。
 この意味を、山本太郎さん自身がどう考えて、自覚するか?そのことが、今後の「れいわ新選組」の行方を左右するだろう。関さんの論理をあてはめれば、それは、「れいわ新選組」の終焉をすでに意味しているのかもしれない。しかし、それは、次のミライへのステップとなる「終焉」なのかもしれないのだ。

 (その2)

れいわ新選組の意味を「内側から」解読した貴重なやすとみ歩さんのエッセイをご紹介しながら、政党政治の終焉について少し書いたが、このやすとみさんのエッセイに呼応するように、もうひとつの注目すべき論考をご紹介したい。それは、ながらくホームレス支援活動に関わってきた稲葉剛さんのエッセイである。それは「山本太郎さんは「ホームレス」ではない~システムの内側から変革するために」と題されたものである。
inabatsuyoshi.net/2019/07/27/3554 


 このエッセイの結論部分で、稲葉さんは、システムの外側からシステムを告発する運動を展開してきた山本太郎さんが、れいわ新選組が「国政政党」になり、こんどは告発してきたシステムの内側の存在になったことに自覚的であるべきと注意を促す。そして、れいわ新選組の登場をやすとみさんの「無縁者」という評価にくわえて「梁山泊」という評価で好意をもつといいながら「政党でも社会運動団体でも、財政規模が大きくなり、雇用する人が増えれば、組織としてのコンプライアンスを求められることになり、対外的な責任も増していく。そうなれば、無縁の原理とは異質な組織原理を持ち込まざるをえなくなるのではないだろうか。」という。

 まさに、システムの外側から内側に鞍替えした存在の矛盾構造がそこにはある。稲葉さんは、その矛盾を超えるモデルとして障害者運動をあげている。私も、障害者運動の末端の末端にたずわさっていたと自認しているから、その提案は理解できる。
 ただ、ここで、このシステムの内側と外側という視点を、稲葉さんの問題提起をお借りして、私なりに深めてみたいと思う。
 
 れいわの周辺では、選挙期間中に、この選挙は「旧勢力VS新勢力」の闘いだと言われていた。このことが「システムの内側と外側」ということに対応していると思う。

 システムの内側とは、いまの金融マネーシステムで動いている社会そのものである。それは、借金で創られるマネーシステム(負債性通貨)のことに他ならない。そもそも、現在の議会制の起源をたどると、16世紀のオランダで国の膨大な戦費をまかなうために「国債」を発行して、その「国債」を認めさせるために議会に「徴税権」をあたえ、「議会の信用」で国債を発行していく仕組みを創り出した。王権が踏み倒してきた借金を国民の代表である議会の信任により「国債」として国民から税で徴収するシステムに構造転換させたわけだ。

 このシステムが、現在の議会政党制にまでつながってくる。だから、議会政党制は、この借金で創られるマネーシステムと共犯関係にある。そして、国民からあつめた税の分配装置が「政党」である。その分配の割合・方法をめぐって、「政策」を協議しすりあわせ、妥協して、議決をしながら税の分配構造を「予算」という形で決めていくのが政治の一つの柱だとされてきた。しかし、右肩あがりの経済成長が鈍麻し、税の徴収が思うようにいかず、はたまた、生産力をひたすら追い求める工業化社会の終焉と共に、国民の意識や利害も分散化してきている。したがって、国政選挙は、利害分散化の象徴である無党派の浮動票がキャスティングボートを握ることとなり、小選挙区制度などの選挙制度もからまって、その時々の選挙結果が大きく動いていくこととなった。
 その意味で、象徴的なのが「民主党ブームによる政権誕生」と「その崩壊」である。この結果、浮動票が求めているのは、無意識にかもしれないが、これまでの、マネーシステムと共犯関係にあった内側ともいうべきプロ政党政治「からの脱却」だったのではないかと思われる。雑駁な言い方とすれば、「プロ政治への幻滅・うんざり感」である。
 ここからの「脱却」が、今回のれいわ新選組への支持となってあらわれたと思う。

 だから、この支持層を維持し拡大していくためには、システムの内側から遠ざからなければならない。システムの内側で安易に政権をとろうとして、他の政党の政策と妥協や連立をすれば、たちどころに、今回の有権者の支持を失うだろう。
 
 そのシステムの外というのは、政治のプロから遠い人たちの広範な世論の巻き起こしにかかっている、地方から、そして、アンダークラスといった現在の階級構造の下降圧力にさらされている人々から、その動きをつくっていくことが求められている。「ウォール街を占拠せよ!運動」「五つ星運動」そして「イエローベスト運動」などを発展させた直接民主制的な運動をつくりあげていくことが望ましい。もちろん、スイスの国民発議などの地方版(住民投票)も有効だろう。

 とにかく、安易な「プロ政治」との妥協は避けるべきだと思う。そのときの一番有効な政策は、プロ政治がもっとも抵抗を示す政策である。それは「政府通貨」と「国民配当」の政策になるはずだ。この政策を強く打ち出して、他のプロ政党集団をけん制することが、世論の支持を得て今後の日本の政治を導く。

 内側のシステムは、あの映画の「マトリックス」だ。みんな「マトリックス」の住人として幻想化した世界に騙されている。ここから覚醒する「ネオ」は、その武器として「政府通貨」と「国民配当」を持たなければならない。
 
この「覚醒」がどこまでできるのか?そこに私たちのミライはかかっている。


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