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虹の足元⑤

 カーステレオから、聞き覚えのない悪趣味なJ-POPが流れている。いつだったかドライブに出かけたとき、玲奈がCDを入れたままにしていたのだろう。オーディオを切ってCDを取り出すと、車内はフロントガラスを打つ雨の音に包まれた。不規則なリズムで断続的に続くその音は、無機質でありながら生活感に溢れている。ときおり焦って思い出したように動くワイパーが、俺の視界を保ってくれている。
 嫌な降りかただ。これくらいなら大丈夫と思っていても、気が付いたらずぶ濡れになっている。ペースを上げろとワイパーが疼いているのを感じながら、青に変わった信号を直進した。

 響子は飲みに行きたがっていたが、俺はそれを断り響子の家で会おうと提案した。直接話さないといけないことがあるから、と言うと、彼女はすんなり受け入れた。スマホの液晶に映し出された「最近、全然会えてないけど、好きだよ」というメッセージには何の温度もなく、言葉以上の意味は見いだせなかったのに、電話越しの響子の声は色を帯びていた。それは無垢な白にも見えれば熱い赤にも見えたし、哀しい黒でもあり、憂鬱な青にも思えて、彼女がどういうつもりでいるのか、事前に推し量るのは難しかった。

 響子の部屋は綺麗に整えられていて、家というよりも事務所に近いような雰囲気だ。久しぶりに訪れたというのに前の記憶と全く変わらないのがその証拠だった。どうすれば部屋の清潔感をこれだけ長い間保つことができるのか疑問で仕方ないが、そもそも物が少ない部屋なのだから、当然と言えば当然だ。いつもならいい加減に脱ぎ散らかす靴も、思わず玄関で揃えていた。

「元気?少し痩せたんじゃない?」
「そう?酒ばっかり飲んでるからかなあ。響子も元気だった?」
「ま、普通かなー。わざわざ来てくれてありがとね」
「全然。響子、なんか雰囲気変わった??」
「気のせいじゃない?別に何もしてないよ」
「まあ、会うの久々だもんな。時間が経てば人は変わるもんだよね」
「お互いにね。あっくん、もしかしてタバコ変えたでしょ?」
「いや、ずっとLARKのままだけど」
「そう?なんか前と違うタバコの匂いがした気がしたけど…気のせいか」
「気のせいでしょ」
「ま、どっちでもいいけどねー。それよりさ、いいもんあるからちょっと待っててよ」

 響子の思わぬ鋭さに背中で冷や汗を流しながら、キッチンへ向かう彼女を目で送った。

 しばらくして響子はカクテルグラスを持ってリビングに戻ってきた。

「これ見て!ジンライム作ってきたよ!付き合って今日でちょうど一年だし、記念に飲もうと思って」
「え、そうだっけ?ああ、そうだったか…」
「どうせ覚えてないと思ってたよー。私も記念日とかどうでもいいほうだし単純に飲みたいなーって思っただけだけど、たまたま気が付いたからさ。一年記念ならジンライムがいいかもって思って」
「…なんで?」
「告白してくれた時あっくんがジンライム飲みながら言ってたじゃん、花言葉と同じようにカクテルにも込められて意味があるって。ジンライムのカクテル言葉は『色褪せない恋』なんだ、って。今までもこれからもずっと好きだから付き合ってほしいって、ジンライム飲みながら言ってたじゃん!今時こんなクサい台詞を馬鹿正直に言えちゃう生きた化石みたいな人もいるんだ、って爆笑しながらOKしてさ、あっくん酔ってもないのに顔真っ赤にしてたの、覚えてないの??」

 響子の言うとおりだった。あれはちょうど一年前、響子と知り合って三~四回目のデートだったと思う。酒好きな響子に響きそうな告白には、どんな言葉を選べばいいだろうと亀山さんに相談までして、酒言葉の存在を教えてもらったのだった。うまくいくかはさておき、喜んでくれるのは間違いないだろうと思っていたのに、響子に大笑いされて顔から火が出るほど恥ずかしかったのも、今ありありと思い出せる。そのことを亀山さんに報告したら、人生の武勇伝は常に黒歴史であるべき、と意味のわかるようなわからないような迷言をもらったことすら思い出してきた。
なぜ忘れていたのか、いつから忘れていたのか、振り返っても見当がつかない。喜びと羞恥とが入り混じったあの気持ちを、忘れている自分が信じられなかった。

「ごめん」

 辛うじて絞り出した俺の声は、少しだけ涙で湿っていた。

「ま、忘れたくもなるよね。あんなに恥ずかしいひと、後にも先にも見たことないもん」

 響子は楽しそうにケラケラ笑っている。

「あれから一年経ったわけだけど、私たちって本当に変わらないね。お互いマイペースだし会う頻度も多くないし」

 響子は口に含んだジンライムをゆっくり飲み込んでから続けた。

「でもそれが心地いいのよねえ」

 響子は目を細めて窓を見ている。それは遥か彼方の景色を眺めるというよりも、遠い過去を懐かしんでいるような表情だった。彼女の大きくて黒い瞳を、俺は一度でも正面から見つめたことがあっただろうか。そうだね、とからっぽな返事を最後に、俺たちはただ黙って窓の外の雨模様を眺めながらジンライムを飲んだ。

 この一杯を飲み干したら、本題に入ろう。二人でジンライムを飲むのはこれが最後だなとグラスを傾けたとき、響子が口を開いた。

「なんか、こういう時間久々じゃない?何かの本で読んだけど、『沈黙さえ楽しめるのは恋人だけに許された特権だ』って。何を話すでもなく、ただそばにいて、ただ黙ってお酒を飲んでるだけでも、同じ時間、同じ空間を共有できることに意味があるんだなあって改めて思うよね。いつも一緒じゃそういうのって忘れちゃうから、こうしてたまに会える時間が好きなんだよね」

 ジンライムを飲み干すのはひとまず辞めにした。

「雨の日っていいよね。今日みたいにおうちでゆっくり過ごすのでも、外に出かけて雨宿りでもいいんだけど、一緒にいる理由がひとつ増える感じがしてすごく好き。いつも一緒にいたら、そんなこと感じないんだろうけど」
「じゃあ、響子とは会わない時間を増やしたほうがいいのかな?」

 響子は、まるで旅先の異国で幼馴染にばったり出くわしたかのように驚いて、笑いながらこう言った。

「そんなわけないじゃん!会えたら会えるほうがいいに決まってるでしょ!私はただ、隣で黙ってお酒を飲む楽しさとか、雨の音を聴く時間の大切さとかを忘れたくないっていう話をしただけ。もしかしてここのところ会わなかったのって、わざわざ会わないようにしてたの?」

 それはちょっと違うんだけどな、どうやって返事しようかな、と考えても頭が回らないのは、ジンライムのせいにしてもいいものかどうか悩む。

「確かに今の距離感はすごくちょうどいいというか、好きだよ。でも、会うのをわざわざ我慢しようとかは私は考えたことないけどなー。あっくんってそういうところ、真面目というかバカだよね、良くも悪くも」
「どうせバカだよ、俺は。目の前のことに一つ一つ向き合うしかできない不器用な人生だよ」
「あっくん今、楽しい?」

 響子の不意な問いに俺は面食らった。

「え、今?今って、今?たった今?」
「そう。今。今、私と話してて楽しい?」
「すごく楽しい」
「今日ここに来るまではどうだった?ここに来るの、楽しみだった?」

 一瞬、玲奈の顔が脳裏を過った。

「あんまり楽しみじゃなかった」
「ほら出たよ、そういうとこだよ、良くも悪くもバカなとこは!」

「見て」

 響子が窓を指さす。雨はまだ降り続いているが陽が出始めて、遠くに虹が出ていた。

「虹ってなんで綺麗に見えるか知ってる?遠くから見るから綺麗なんだよ。今虹がかかっているあの場所にいる人には虹は見えなくて、ただ雨が降ってるとしか感じない」

 俺は黙って響子の次の言葉を待った。

「だからね、今ここも雨が降ってるんだったら、私たちのこの場所にも虹がかかってたらいいなーって思うの。ここから見えなくても、誰かから見て綺麗な虹がかかっていたらいいなって」

 俺は響子の目を見て言った。


「かかってるよ、きっと」


 


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