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あなたは原石

出会った頃の母は、私によくこう言った。「あなたは原石」

中学生の頃、父が再婚したので母とは血が繋がっていない。ここでは母と呼ぶが、普段は名前で呼ぶ。母とは運命レベルで繋がっている存在だと思っている。

心を開くのには時間はかからなかった。小さい頃から私は他人によく変人扱いをされる扱いにくい子だったのに、母だけは「あなたは原石。磨いたら綺麗な宝石になるよ」と私を褒めた。家を出るその日まで、母と沢山のおしゃべりをした。19歳になる年に、一人でイギリス旅行に行かせてくれた。20歳はイタリアへ。友達もあまりいない、机の上のミシンと布だけの狭い世界で生きていた私に、世界はここだけじゃないと本気で教えてくれた初めての大人だった。

「夢を語るなら自分で飯が食えるようになってから語れ」という教えだったので、家を出たら沢山好きなように生きて、好きな事を仕事にしちゃおうと思っていた。
お金を貯めて一人暮らしを始めて、現実は甘くはなかった。生活の為にバイトをしたり派遣で働いて、それ以外は寝る間も惜しんでとにかく作った。今の自分になるまでには何年も何年もかかった。

あの頃の自分を思い出すと、少しだけ辛い。自分のことが好きじゃなかったからだと思う。生活費をギリギリまで抑える為に、ボロボロの家に住んでいた。家の柱と壁の隙間から、外が見えた。冬でもペラペラの服を着て、猫とくっついて寝た。30歳になるまで家にはクーラーがなかった。技術が足りず満足できる作品を作れない自分、仕事でどんなに頑張ってもバイトや派遣だからと評価もされない自分、いつまでたっても好きな事を「これは仕事」って言えるようになれない現実、生活もギリギリでこんなのいつまで続くんだろう。
あの頃に読んだ、置かれた場所で咲きなさい という本の言葉が沁みた。でも諦めて好きなことは趣味にすればいいという言葉だけは、拒んだ。
この言葉だけは一度も飲み込まなかった。この頑固さが、自分の生きづらさを作っていることも、分かっていた。

辛い時は母に電話をした。電話代も気になったので、精神がギリギリになった頃電話をした。母はただただ話を聞く。後にしてねとも言わず、面倒くさがりもせず、ネガティブ満載の話を聞いてくれ、時々、救援物資という名の美味しい物を送ってくれた。でもお金を援助してと言ったことも、援助してあげると言われたこともなかった。

この仕事でご飯が食べられるようになった頃、聞いたことがある。「お金を援助してもらったこと、そういえばなかったね」と。

「あなたはプライドを持った貧乏だったから、私はそれを壊さないようにと思ったのよ。貧乏をなめるなと思ったの」

母は私の事をよく知っているなぁと思った。私はお金を援助してもらったら、二度と泣き言電話をかけられない。私はそういう性格なのだ。母のその言葉を聞いた時、あの頃の自分を少し好きになれた気がした。

置かれた場所で咲きなさい、そんな素敵な言葉もあるけれど 今の私は、自分の決めた場所で咲きたい、どこで咲くかは自分で決めるんだと思っている。

私も歳を取り、母になり強くなった。息子にもあなたは原石と言っている。もう少し大きくなったら、いろんな経験をして沢山転がって磨いておいでと言うだろう。磨いてもらうんじゃない、自分で磨いておいでと。息子と猫の寝顔をみながら、この記事を書く。

今回も読んで下さり、ありがとうございました。
毎回楽しみに読んでるよ〜と感想を少しずつ頂けるようになって嬉しく思っています。また書きますね。

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