とりかえっこ

 昔々、街の中心に近いところに傷ついた鶴がいました。偶然にそこを通りかかった若者は、傷ついた羽を震わせ苦しそうな鶴を見つけて立ち止まりました。(助けなければ)若者は助けることを前提にして、念のためにその後のことも考えてみました。もしもこの鶴を助けたとして、鶴の傷が癒え、元気になったとして……。
 若者は助けた後の未来に想像を掘り下げながら立ち止まっていました。元気になった鶴が、突然家に押し掛けてくるかもしれない。部屋を一つ貸さなければならなくなるかもしれない。人間の振りをした鶴が、こっそり仕事を始めるかもしれない。うるさくて眠れないかもしれない。冷蔵庫を勝手に開けられるかもしれない。合い鍵を作らなければならないかもしれない。隣人に怪しまれるかもしれない。
「絶対に見ちゃ駄目」と言われるかもしれない。
 その時、自分はどうなってしまうだろう。(今のままじゃいられないよ)変わることへの不安、失うことへの不安が脳内を占め、若者はどうしても救助の一歩を踏み出すことができませんでした。自分でなくても……。その内にそのような思いが大きくなっていくのでした。
 人通りは多いのだし、途絶えることはないのだし、都会なのだし。もっと余裕のある人が助ければいい。間取りの広い家の人が助ければいい。ちゃんと秘密を守れる人が助ければいい。だから、それは自分以外の人間だ。きっとその方があの鶴にとっても幸福なことに違いない。そう結論づけて若者はその場を離れました。街の中心を離れ、自分の家とは真逆の方へ歩いていきました。

 ちょうどその頃、太郎さんは海辺で迷いながら一頭の亀を見ていました。亀はたくさんの若者たちに囲まれて、酷い仕打ちを受けているのでした。いったい亀は何をしたと言うのでしょう。(きっと何もしていないに違いない)寄ってたかっての攻撃にじっと耐え続ける亀の甲羅を見ていると何となくそのような感じがしたのでした。
 ゆっくりと太郎さんは哀れな(勇敢な)亀の元へ近づいていきました。罵声と笑い声がどんどん大きくなっていきます。
「助けなきゃ」そう思った瞬間、なぜか太郎さんの足は前進を止めてしまいました。助けることはできるだろうけど。太郎さんは助けるにしても、その後のことを考えてからでなければ動けませんでした。将来のことを見通してからでないと、一歩を踏み出すことは困難だったのです。
 乱暴者たちを追い払い、憂いの晴れた亀は元気を取り戻す。そして、亀はどうするのだろう。(とても義理堅い亀だったりしたら……)「どうぞ私の背中に乗って」と誘われるかもしれない。それはハニートラップかもしれない。甘い笑顔、甘い言葉、強引な甲羅に拒むことができないかもしれない。一度亀に乗ってしまうと、亀はぐんぐん進んでいくかもしれない。振り返らずに海の方へ向かっていくかもしれない。寒いかもしれない。冷たいかもしれない。息が苦しいかもしれない。ずっと家に帰れないかもしれない。深い深い場所できれいな人に出会うかもしれない。それは新しいハニートラップかもしれない。うれしいかもしれない。楽しいかもしれない。しあわせすぎるかもしれない。戻れないかもしれない。いつかは戻されるかもしれない。
 助けた後の風景に想いを巡らせながら、太郎さんは酷い仕打ちに耐える亀を見ていました。ずっと戻れなくなるかもしれない。ずっといたくなるかもしれない。いつかは戻されるかもしれない。そことここでは人生の重さが違うかもしれない。時間の長さが違うかもしれない。帰りはタクシーかもしれない。大層な贈り物を持たされるかもしれない。開けるなと言われるかもしれない。みんな変わっているかもしれない。知人も友人もいないかもしれない。知らない芸能人ばかりかもしれない。開けるしかなくなるかもしれない。煙に包まれるかもしれない。一瞬で老いてしまうかもしれない。
(酷いとばっちりだな)
 老いた自分の姿を想って、太郎さんは身震いしました。
(自分でなくても)太郎さんは突然そのように思い後退りしました。もっと武芸に秀でた者が、もっと権力を持った者が、あるいはもっと誘惑に強い者が助ければいいのでは……。その方がすべてが上手く収まり、あの亀にとってもきっと幸福なことに違いない。そう結論づけると太郎さんはくるりと回って歩き始めました。

 その時は納得したはずの結論でした。けれども、海辺から離れるに従って、太郎さんの胸の中には経験したことのない後悔の念がとめどなく押し寄せてくるのでした。(どうして歩みを止めてしまったのだろう)波の音も、あの亀の悲鳴ももうどこからも聞こえてはきませんでした。横断歩道の陽気なミュージックが途絶えて太郎さんははっとして走り出しました。街の中心まで来た時もうすっかり人影も途絶えていました。微かな風を聴いて足を止めると太郎さんは傷ついた羽を震わせ苦しんでいる鶴を見つけました。
「どうした?」
 太郎さんは一瞬もためらわずに鶴の元へと駆け寄ると傷ついた鶴を抱え上げました。
「もう大丈夫だよ」


#メルヘン #小説 #昔話 #詩 #不安 #先読み


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?