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シングル・スクール

 教えなければならないことが私の持ち時間を遙かに超えてしまったから。私に教えることは何もなくなった。そう言い残して先生は教室から出て行こうとしている。先生は逃げるんですね。僕たちを置いて。今までのことはどうしてくれるのです。何もなかったというのに何を教えていたのです。僕は逃げ出していく先生の肩にぶつかって先生を止めた。ファールだと窓にくっついていた虫が騒いだけれど、主審はファールを取らなかった。先生そうはいきませんよ。もしも行くなら僕も一緒です。先生のいない教室はただの部屋、公園、大通り……。私はいずれにせよ、この場所に残る以外のことを考えることはしなかった。与えられた時間を与えられた場所で過ごすこと。

 それ以外に私たちが学んだことはなかったのだから。動こうとしても動くことができないのです。教えることがなくなったとしても、私たちには学ぶべきことが残されている。先生が逃げ出すしかなかった理由について、私たちは最初に学び始めることができます。まさにそこに先生という存在がいないからこそ、より長くより深く、それぞれの想像を働かせて、そこにぽっかりと空いた空間のことをじっと考えることができるのです。俺は先生を追いはしない。俺にとっては元からそこに存在していないからだ。俺は先生の声を信じない。

 俺は人間の声を信じない。俺は主人公の声を、二次元の声を信じない。元をたどればそこにはいつも人間がいる。ふっ、人間じゃねえか。信じられないな。俺と同じ生き物なんて。俺は鳥の歌声を信じる。俺には理解できない歌だ。だから、疑う余地もない。いったいここにいる人々は何を待っておるのかのう。わしはラーメン・コールを待ちながら、ふとそんなことを考えておったもんじゃ。今そこにある雨はほんの序の口。本降りと言える強い雨は、この先に控えておる。それなのにここにおる人々は何をのんびりと構えておるのじゃろうか。おぬしはそれについてどう考えておるのかの。

のーよ。

 ふん、聞く耳持たずか。まあ、それもよかろう。何でも聞いておったらろくなことにならんからの。まったく油断ならん世の中よの。雨はどんどん強くなるぞ。おぬしもそうかの。「どうせ教え切れないのだから」それが立ち去る理由だと言うのですか。「そうともさ」だって、教えなくても同じことでしょう。

「だったらどうして教えないのですか」

 僕は先生のあとを追って教室を飛び出した。逃げていく自分を僕は追いかける。追いかけずにいる自分。居座る自分、不動の自分、居残る自分、動かぬ自分、微動だにしない自分、岩のような自分、銅像のような自分……。「現実から逃げるんですか」いいえ。逆よね。先生が去ったあとの教室には、今までで最も難しい授業が残された。独りの僕と、無数に見え隠れする自分たちが、戸惑いながらも逃避の先にある新しい現実と向き合おうとしていた。

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