目はクリクリと大きく頬は朱で(その2)

 柿揚の少女絵趣味は中学の時代に開花した。
 12月、小雪の舞う田園調布を悪友達と歩いていた時にすれ違ったセーラー服の集団に見とれてしまったのがその発端だったかもしれない。
 まずセーラー服の少女という記号に惚れ、そういったものが含まれる写真を集めた。あらゆる雑誌を漁り、セーラー服の少女を追い求めた。
 そのうちセーラー服の少女の絵に行き当たった。
 画筆家が手慰みに描いたとおぼしき少女絵なのだが、この絵に柿揚は入れ込んだ。あとは堰を切ったように絵の世界にのめり込む。
 いつしか自分でも描くようになっていた。
 世にあるセーラー服少女、どれもこれも素晴らしいのだが、あともう一つ何かが足りない。
 その何かを求めて雑誌や絵画を漁ったがどうしても埋まらない。
 
ーー俺が埋めるしかないーー

 日本は広い。探すうちに同好の士がいることをつきとめた。
 その同志達は季刊の同人誌を発行しており、その同人誌は柿揚の欲望を良く満たした。
 柿揚が好きな作家(アマチュアであるが)は北は北海道、南は宮崎まで広くいた。特に好きなのは広島の「龍姫」と号する男性アマチュア作家である。まず第一に「龍姫」という号が良い。
 中学に入り立ての少年が抱きがちな妄想、独自の空想世界をそのまま大人になっても持ち続けた人間にしかこの号は使えない。
 竜ではなく龍、男なのに姫だ。竜宮城を連想するが、読みが「ドラグンプリンスス」なのだ。英語のようなフランス語のような、なんでドラグンなのかプリンセスではなくあえてプリンススなのか。
 その辺も考え出すときりがない。
 号も良いが、もちろん一番は彼の描く少女絵である。
 
 縞柄のきわどい下着をまとう少女が書生を雷の力で改心させるという斬新なストーリーで、その挿絵が彼のものである。
 従来にない大きさの眼、髪の毛の色が日本人の黒ではない、さりとて西洋人の栗色でもない、金銀でもない、緑色なのだ。
 世の少女絵は写実を追求するあまり頭身が伸びがちであるが、彼の少女絵の頭身は頭が大きめで写実と比べると不自然なのだが、説明しがたい比重をたたえ、ごく自然に見えるのだ。
 その全てが不自然であるのに、合算すると自然になり、途端にキュートになっていく。これは魔法である。
 


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