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思い出と、未来ったらしの自分。


マカロニえんぴつの新曲「愛の波」の歌詞が凄い。

いやぁ、すごい。感服、眼福、耳福です。

どれだけ暮らしが惨めだとしても
せめて言葉と想いは使い果たしてゆくよ
誰かに届けているつもりでいて、
まだ大丈夫?ってじぶんに訊いていたんだな

ですって、奥さん。

言葉と思いを使い果たすって、出来るようで全然出来なくてさ。出来ているようで、全然出来てなんかいなかったり、そのくせ言葉にしなかったのに伝わっちゃう想いとかもあって、ニンゲンが手に入れた「言語」というコミュニケーションの端っこで、体操座りのまま拍手しています。


最近ね、挨拶をするようになったんですよ。

基本的な挨拶というのは、勿論やってたんですけど、そうじゃなくって、「仕事で行く先のマンションの廊下ですれ違う、見ず知らずの初見の人」とか「こじんまりとしたお客さんの人数一桁の居酒屋やバーで、通された自分の席に着くまでにもうすでに入ってるお客さん」とか、普段していなかった層に向かって、軽やかに「こんにちは」とか「こんばんは」とか。

先にお店をお暇する時も、会話なんかしなかったとしても、その場を共にしていた人として
、「お先に失礼します」とか「おやすみなさい」とか、そうやって、知らない誰かに向かって、「言葉」を置いてくるようにしたんです。

私はこれを、『上京3年目の余裕』と呼んでいます。(今日から)

なんせ「東京は怖い街である」というのは、頭のどこか片隅に常にあって、たいていの事件・事故・日本の闇は東京で生まれているという偏見を持っていました。

上京初日、「通り魔がいるかもしれない」とプルプルしながら道を歩いた記憶があります。

東京って、地図で見るとこんな狭い土地なのに、溢れんばかりの人が出入りするわけじゃないですか。

「イザコザ」というものは、人間が2人以上集まればもう勝手に生まれてしまうものであって、なんのイザもコザもない関係なんてのはまだ表面だけの付き合いなわけであって、だからこそ、流入してくる人の多さが尋常じゃないこの東京には、みんな、色々な感情を抱えて、その気持ちも一緒に流入してくるわけであって、その感情と感情が、こんな狭い土地にひしめきあえば、そりゃあ毎日『それぞれの人間劇場』が繰り広げられるだろうよって、そう思うわけなんです。

加えてコロナ禍で、他人と不要不急の「会話」すら、控えるようにと言われた。

会話を控えるって、言葉をコミュニケーションの1番のツールとしてきた人間にとって、だいぶしんどい状況だったよなぁって思うんです。

くだらないことでひとしきり笑うとかが出来ないのって、時に生きる喜びまでも失われるよなぁって、そんなふうに深刻に思ったのはきっと、私の大好きな趣味が、“言葉で遊ぶこと”だからなんだなあって、最近、ようやく腑に落ちました。


単純に、日本語という言語が持つ独特の汎用性が好きだし、同音異義語とか韻を踏める言葉とかの可愛さ・かっこよさ・美しさを知るたびにちょっと感動さえします。



『識字率』という言葉を覚えたのは、14歳の時で、南スーダンの医療支援を行っている先生の本を読んで、その国の識字率が27%程度であることを知り、その言葉の意味を理解しました。

言葉って、無料で楽しめる遊び道具だと思っていたんだけれど、でもそれは、識字率99%の日本人としての感覚なんだってことに、そこで初めて気が付きました。

そうしたら、日本語で遊べる奇跡に、結構感動をおぼえたんです。78億人のこの地球の上で、たまたま1億2千万分の1として、必死に勉強もせずに母国語として日本語を習得して、今日もこうしてペラペラと綴ることができる。

母国語が英語だったら、絶対にこんな複雑な言語、勉強しなかったでしょう。

だから、こうして、誰かが読んでくれるかもしれない世界のはじっこに、言葉を置いておく。

誰にも読まれなかったとしても、あの人が読んでくれたらそれだけでいいやって、そう思えるダレカがいて、ずっとそうやって書いてきたんです。

それはとても、ありがたいこと。


今年は『動』の年にしようって思えたんだ。

この3年間、『静』の中で、自分がやりたいこと、会いたいと思う尊敬する人、行ってみたい場所、奏でたい音、撮りたい風景、残したい言葉、そういうものを、すごく丁寧に、見極めていた。

ちゃんと意味のある、静かな3年間だった。

今年はね、自分がしたい『動』を、ちゃんとしようって思う。


年が明けて、2023年についてこんなふうに思いを馳せて、3ヶ月がたった。無意識的だったけれど、東京を生きる他人に自然と挨拶するようになったのは、自分の中のこういう意識の変化だったんだと思う。

なんていうか、自分の半径2メートルくらいの空気の湿度を、少しばかりか安定させられるような気がするような、そんなかんじだ。

2-3月までは、リハビリも兼ねて、「誘われたら基本断らずに行くスタイル」をやっていたら、ちょっと疲れもしたけれど、やっぱり私はニンゲンが好きだし、会話が好きだし、それにかこつけて食べる美味しいご飯が大好きだって思った。

そして、とある人が言っていた『他人と一晩飲んで語ると「ストレス減る/体調ちょい崩れる/思考と行動のきっかけ増える/モヤっとしてた感覚が形になるきっかけ/低リスクで高速で思考をアウトプットできるお得感/味や酩酊や楽しさの記憶が残る生存感/発言への少しの後悔」がドバッと押し寄せてくるので「一晩飲んだらそこでチャージしたインスパイアを動力に丸2日くらいは素面で生きないと割に合わない」という感じが出てきた。毎晩とか2日に一度とか飲むと、得られた機会が有効に血肉にできないまま散逸してく感じがある。』と言っていたのがとてもとてもとても分かりみが深くて、言葉の過剰摂取を避けるためにも、誘われたら必ず行くスタイルはやっぱりやめようと思った。

4月序盤は想像通り、仕事的な【動】がメインで、5時起き出社21-22時退社みたいなマッチョな働き方をしていたのだけれど、やっぱり私はこの仕事が好きなんだと、そう思えた日々だった。

混ざんない都会のザラザラに抱かれ、泡になる。


上京して、3年が経って、ちょっとだけこの街に慣れて、行きつけのお店なんかもできて、心地よい図書館も見つけて、今の生活を、結構、気に入っている。

いろんな文章を書けるカメレオンみたいなのに憧れて「ですます調」で書いてみたけれど、途中から、いつも通りに戻ってた。結局のところ、私は私らしくでしか、言葉をつづることができないみたい。


どれだけ祈りが不甲斐ないとしても
せめて言葉と想いは使い果たしてゆくよ
「もうやめとくかい?」あなたを、まだ好きみたい

マカロニえんぴつ 愛の波




「数ヶ月の日々」



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