[感想文]目の見えない人は世界をどう見ているのか

2020.10.24 20:00 追記と微修正

読書感想文コンテストという少年時代には大嫌いだったはずの企画に乗って何冊か購入した。その一冊目。

本書は美学を修める研究者が視覚障害者にインタビューし、彼らが何を感じて、思い、行動するかを聞き取った資料を基にして、最も大事な感覚機能を失った人たちがどのようにして認知機能を再構築し、この世界を見るのかについて考察する。https://www.amazon.co.jp/dp/4334038549/

 視覚障害者は代償的に聴覚や他の身体感覚が発達している事が多い。彼らの脳では視覚処理に用いられている脳領域が代償的に他の感覚処理に転用されており、この事が優れた身体感覚を有する理由の一つとして挙げられている。脳の視覚系は出生後から眼からの入力を受けて徐々に発達する。入力を絶つと発達は止まる。感覚処理システムの構築には外界の刺激への適応が必要なのだ。脳は柔軟で可塑的であり、ヒトの脳は各自の成長と経験の蓄積を残す履歴書である。同一の遺伝子セットを持つ一卵性双生児でも経験の違いで脳の発達はちがった系譜をたどり、人の個性が生まれる。

 小林幸一郎さんという方がいる。全盲ながらもクライミングを実践し身障者のパラクライミング競技の世界選手権で優勝を重ねている。視覚障害者のスポーツ振興に取り組んでおり、彼が運営する法人が私の職場に隣接する病院で視覚障害者も遊べるボルダリング壁を運営している。小林さんの登りを見た人に聞いた話、ボルダー壁に取り付き、ホールドの位置と距離を聞くだけで見えないホールドに飛びつけるのだそうだ。身体のサイズと動きからの距離感を把握して思い切り飛べるんだろう(グレードV5、1-2級だったとか。自分にはとても手が出ない)。小林さんが網膜色素変性症で視力を失ったのは28歳の時だったそうだ。若い頃からアウトドア活動とクライミングに親しんでいたそうなので視覚を徐々に失う過程はさぞかし苦労された事だろう。視覚障害の生活に慣れることが大変なだけではなく、眼が見える状態で習得し完成してクライミングの技術を視覚抜きの動作と判断に置き換える過程で彼の身体と脳ではどれほど大きな変化が起きたことだろうか。成人してからも脳神経系が柔軟に適応できる好例だ。

 本書では随所に筆者がインタビューで印象に残ったフレーズを書き残し、筆者自身の感想が述べられるがそれらがいずれもとても本質を突いている。筆者の科学的な眼で抽出されたアイデアが満ちている。いくつか紹介する。

障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。

 筆者の研究する美学では「人はどうやって『美しい』という感覚を持つのかと言う問題を『身体性=感覚と体験』に基づいて理解しようとしている。そこで目の見える人(晴眼者)とは異なる情報入力を強いられた視覚障害者の体験を通じて身体の未開発の可能性を探索しようとしているのだろう。

障害は進化のはじまり

視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。

 視覚をもって生まれ、その後失った人たちにとっては大きな喪失で、健常者はこれを「障害」と呼ぶ。障害は事実だが視覚を失った人たちはそこから始まって新たな認知機能を作り出し、感じ取る世界を再構築する。その意味では障害に適応する行為は創造的であり健常者では体験しえない新たな体験だ。これは進歩であり、進化と言えるかもしれない。

加速度センシング

目に飛び込んでくるさまざまな情報が、見える人の意識を奪っていくのです。
私と木下さんは、同じ坂を並んで下りながら、実は全く違う世界を歩いていたわけです。

 東工大近くの大岡山駅で視覚障害者の木下さんと落ち合った筆者は坂道を下りながら標識や看板を注視する事で大学に向かう「道」を歩いていた。しかしそのような情報が入らない木下さんは足もとの触覚、空気の流れ、匂い、音に集中することで別の世界を見ていた。特に平衡感覚から道の傾斜を感じ取り丘を下っている事を判断し、大岡山が三次元の「山」である事を認識していた。入力情報の質が変わることで新たな世界が開けることはとても新鮮だ。たまには眼を瞑って風と音に集中してみると楽しいことだろう。平衡感覚は三半規管で読み取られるが歩いたり、乗り物に乗ると加速度の向きと強さ、リズムなどが実に豊かな情報を与え、身体は反応する。パラサイクリングの選手はタンデム自転車に乗り晴眼者をパイロットとしてペダルを漕ぐ。ただペダルを回すだけでは自転車は早くは進まない。自転車のフレームはペダルの踏み込みに伴ってしなり、そのエネルギーがペダルを引き上げるときに推進力になる。自転車をスムースに走らせるために自転車乗りは車体固有のしなり方を覚えて、踏み込みタイミングと力を調節する。大型のタンデム車ではパートナーのペダリングに合わせてフレームの振動を操るため更に熟練を要するだろう。カーブでは重心の倒し方も合わせる。そのようなライダーに求められるデリケートな加速度センシング、平衡感覚の鍛錬には視覚障害者の身体感覚が生きてくるのだろう。

指先で見る

見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚や皮質が発火しているのだそうです。」「難波さんは、失明した直後は純粋な「触る」でしかなかった感覚が、次第に「見る」に近づいていった経験について語っています。

 視覚系を経ない刺激でも「見る」という感覚が生まれるというのはまさに眼から鱗。見る事で生じる脳内のイメージは単に網膜細胞が光を感知するだけではなく、脳が情報を処理し、すでに持っていた知識を補完して解釈する事で作られるのだろう。視覚情報がなくてもイメージは浮かぶ。プロ棋士が将棋盤を見ないでも棋譜だけで盤面を脳内で動かせるのも同じ事なのだろうか。

足先で読む

電車が出発するときの煽られ感とか、揺れが感じられて、結構面白いんですよね。どういうタイミングでガタッと揺れるか予想したり、それの応じてぱっと重心を変えたりしているので、たぶん倒れずにいられるんだと思います。

 これは電車内で手すりにつかまらずに立っておられる方の話。私もこのような方を見たことがある。白杖をついて乗り込んだその中年男性は3駅ほどの間を立ち続けたがよろめくことはなかった。終着駅に着くと白杖をこまめに突きながらホームに降り立つ。気になった私は後からそっと「手助けが要りますか?」と尋ねたが「結構です」との返事。後から着いていくと点字ブロックから迷わずエスカレーターに向かい、白杖で軽く確認して躊躇なく下りに乗り込む。通勤時間を過ぎていたが人通りは多い時で、人の流れに沿ってそのままさっさと改札を抜けて行った。彼には何が見えていたのだろうか。

足が最初に接触したその場所をいわば「疑い」ながら、微調整して最も安全と思われる場所をサーチする。そこからようやく体重を預けるのです。

 これが歩くコツなのだそうだ。太極拳の歩行と同じで、足を出すときに前向きの攻撃と引き足の防御、いずれの体制にも移れるように重心の移行に一呼吸入れる。太極拳はゆっくりと進むが、視覚障害者の実際の歩行は足先ののサーチと重心移動は瞬時におこなわれて、普通に歩いているようにしか見えないのだろう。

見えない人にとって声は相手の性格や気分を知る重要な要素ですので、一言その声を聞いただけで惚れてしまう、なんてこともあるそうだ。

ビデオ会議が増えて困った事はアイコンタクトが難しいことだ。知り合いならまだ会話だけで持つが初対面の人と理解し合う必要があるときにビデオの画面はどうにも気持ち悪い。それだけアイコンタクトは人との重要なコミュニケーションだ。眼の動きを見ることでその人の注意のむき方、集中度、関心が読み取れる。流し目、なんて高等技術を駆使する手練れも居る訳だ。視覚障害者はどうやら声を使って微妙な感情を伝え、感じる事に長けているらしい。

 浅川智恵子さんという研究者が居る。全盲の彼女は視覚障害者へのWebコミュニケーションツールを開発して社会へのアクセシビリティー向上させたことを評価されて日本人で5人目のIBMフェローに選出された。以前彼女を紹介するTV番組を見たことがある。彼女の生き方と仕事ぶりに感心したものだがそれ以上に彼女の声が魅力的で、正直言って私は相当に参ってしまったのだ。晴眼者が眼力で発揮するオーラが声に込められていたのかもしれない。

語り出せば切りがないほど面白い言葉に満ちている本書は身体と感覚を意識する学生、科学者、鑑賞者、にとって素晴らしい一冊になる事だろう。

#読書の秋2020 #目の見えない人は世界をどう見ているのか

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