鮭をくわえている父親 (坊ちゃん文学賞二次選考通過作)

 朝起きて食卓に座ると、目の前にいる父が鮭をくわえて座っている。朝ご飯のための焼鮭ではない。まるまる一匹の鮭だ。熊の置物が鮭をくわえている様を想像したらきっと分かりやすい。父は姿勢よく椅子に座り、鮭をくわえたまま、母の準備する朝ごはんを行儀よく待っていた。
 父が鮭をくわえ始めたのは、父の実家にある熊の置物からインスピレーションを受けて、自らの逞しさや、闘争本能などを表現しようとしてのことらしかった。私には父が逞しさや闘争本能などを表現する必要が本当にあるのかどうか疑問だが、もしかしたら社会人として一人の中年男性が働いて暮らしていくには私には想像もつかない苦労や、闘わなければならない場面があるのかもしれない。これまで私や、すでに実家をでて一人暮らしをしながら大学に通う兄が何不自由なく暮らせているのは、父のおかげに他ならない。
 しかし、父の日々の苦労や努力を否定するつもりはないが、どんな理由があるにしても、朝から晩まで四六時中鮭をくわえているのは気味が悪いし何より不快なのでやめてほしい。やめてほしい、というかこれは一体何なのだ。あまりにも理解ができなくて、これなら父が酒浸りのアルコール中毒だとか、そういう方がまだ現実味はある。まあそれも絶対嫌だけど、いくらなんでも鮭をくわえるのはないだろう。熊だって一日中は鮭をくわえたりしないだろうに。
 朝ご飯が食卓に並ぶと、父はくわえていた鮭を一度テーブルの端において、箸を手に取って焼き鮭を食べた。すると父は、「味がしないな」とぼそっと呟き、母がすぐさま「いつもくわえているからでしょ」と言った。指摘された父がまたぼそっと、「そうかな、まあそうか」と言いつつ納得したようで、その後も黙々と味のしない鮭を食べ、卵焼きを食べたときには「うまい」と言いながらあっという間に平らげてしまった。「ごちそうさまでした」と父が言い、箸をおいて、また鮭をくわえた。
「ねえお父さん、鮭臭いから、いい加減そんなことやめて欲しいんだけど」
 父に文句を言うと、父はなんのことだか分からないといったきょとんとした顔で私を見た。
「だから鮭。くわえるの、やめなよ」
「ふまん……」
「不満って、何が不満なのよ」と父に怒ると横から母が、
「すまん、って言ってるのよ」と通訳をした。父は鮭をくわえているとき、口が塞がっていて上手く発声ができないのだ。
 それから父はスーツに着替え、私と母に向って「ひってひます」と言って玄関から出て仕事に向って行った。ふう、と溜息がでた。なぜ父はこんなにも私をイラつかせるようなことばかりするのだろう。

「ねえ見て、鮭おじさん。通学途中に見つけたの」
 学校に着くと、友人がはしゃいだ声で、私の父親の写真を撮ったことをみんなに自慢していた。写真を見せられ、曖昧に笑ってやり過ごしたが、これが私の父親だとばれたときにどんな反応をされるのか、考えただけで恐ろしい。
 父が鮭をくわえながら街中を歩いていることは、すぐにSNSなどで話題になって拡散された。そりゃそうだ。私だって街中であんな人を見かけたら、怖くて距離を取るか、反対に面白がって話題にするか、どちらかの反応をするだろう。
 すぐさまSNSの間で有名になった父であったが、本人は機械にうといし、携帯電話もまったく使いこなせないので自分がそんなことになってるとは露知らず、平気な顔で鮭をくわえながら街を歩いている。父を鮭おじさんと呼んで面白がる人たちの間では、父を見つけるとその日一日ラッキーになるとか、恋愛運が上がるだとか、まったく根拠のない迷信まで生まれている始末で、このまま父がもっと有名になれば、いずれその素性も調べられて、私の父親であることがばれてしまうのも時間の問題なのではないかと不安だった。そうなる前になんとかして父の鮭をくわえるという奇行を止めなければ。しかし、思春期になってから、父とはまともに顔を合わせて話すこともなくなってしまっているし、どうやって父の行動をやめさせることができるのかが分からない。母に相談しても、「今に飽きてやめるでしょう」と言ってなんだか他人事だし、話にならなかった。

 夏休みに入り学校が休みになると、父の噂話を学校で耳にすることはなくなったが、それでも相変わらずSNSでは鮭おじさんの話題は尽きなかったし、少し検索すれば色んな人が鮭おじさんを目撃して、気味悪がったり面白がったり、ありがたがったりしている様子が流れてくる。私も見なければいいのに、どうしても気になって見てしまう。それこそ父が家にいるときは、父なんていないみたいに無関心に過ごして見せるのに、なぜだか父のことが気になってしまう。
 それでそわそわしながら、夏休みを楽しみ切れないで過ごしているときにお母さんから、
「ねえアイコ、おばあちゃんのお家にお邪魔しに行こうかしら?」
 と言われ、とくに夏休みでやることもなければ勉強をしているわけでもなかった私は、祖母の家に遊びに行くことにした。父方の祖母のお家は、私たちが住んでいる家からはそんなに遠くなく、電車ですぐに行ける距離にあった。
「こんにちは~」と祖母の家について母が挨拶すると、中から祖母が、「はいはい、いらっしゃい」と言って出てきた。
「よく来たね、アイコちゃん、また大きくなって」
「アイコももう高校生ですからね」
「あら、そういえばまだお祝いしてなかったわ、入学祝い」
「いいよおばあちゃん、お祝いなんて」
「いいの。ちょっとお小遣いもってくるから」
 と言って、祖母は引き出しの中から小さな封筒を持って来て、お小遣いを包んで渡してくれた。
 母と祖母はリビングで座って、お茶を飲みながら菓子を食べている間、私は祖母の家の中を少しふらふらと探索していた。まだ小さな頃、ばたばたと家の中を走り回って、父や亡くなった祖父と一緒に追いかけっこやかくれんぼをして遊んでいた記憶が微かに残っていた。昔はもっと大きくて広くて、どんなに走り回っても平気に思えた祖母の家だけど、大きくなってみればさすがに走り回れるほどの広さもない、普通の一軒家だった。
 和室には、小さな頃に走ったり転げたりして遊びまわった畳があり、少しすれた後のようなものが見えるのは私の足跡か、もしくはもっと昔の、父の遊んでいた頃についたものだろうか。
 壁には誰の書いたものか分からない掛け軸が飾られていて、その横には鮭をくわえた熊の置物があった。まさにその、父が影響を受けた熊の置物だ。四つの足で、威厳ある佇まいの熊。なぜこれを父は参考にしているのか。
 どれだけ見ても、父の行動には納得ができず、しばらくその熊の置物とにらめっこしていると、
「どうしたのそんなにじっくり見て。欲しいならあげるわよ」と祖母に声をかけられた。
「ううん、違うの。ただぼうっとしてただけ」
「そう、なんか真剣に見ているから、欲しがっているのかと思った」
 あまりに私が凝視していたものだから、祖母は私が熊の置物を欲しいのだと思ったらしい。
「違う違う、それにこれ大事なものなんでしょ。もらったら悪いよ」
「別に大事なものではないけど、思い出ならあるわ」
「思い出?」
「そう、思い出。アイコちゃんがすんごく小さい頃はね、これ見てアイコちゃんがきゃっきゃと笑ってたのよ。だからアイコちゃんが泣くたびにね、この部屋でお父さんが一生懸命あやしてたの。なぜだかこの熊の置物を見せるとね、不思議と笑って泣き止むの」
「私が? これ見て?」
「そうよ」
「へえー、そうだったんだ……」

 帰り道、祖母に聞いた話を思い出しながら、父のことを考えていた。思えば中学の後半から高校生になってからこれまで、父と話すことはおろか、父の前で笑顔を見せることもなくなっていた気がする。まさかとは思うけど、私のことを笑わすつもりで父はあんなこと始めたのだろうか。仮にそうだとして、いくらなんでもそのやり方はないだろうと思うのと同時に、父に対する自分の態度にも、反省するところが多々ある気がした。
「お母さん、なんか私、お父さんに悪いことしちゃってたかな」
「どうしたの急に」
「いや、なんとなく」
「珍しいわね、でも気にしなくていいのよ。あなたが元気でいるのがお父さんの幸せなんだから。お母さんだってそうよ」
「うん。でも私、お父さんのこと必要以上に避けてた気がする。お父さんの気持ちとか一度も考えたことなかった」
「ふふ、でもあの人、そんなに深く何も考えてないわよ」
「そうかな」
「うん、でもお母さんは嬉しい。アイコがお父さんのこと心配してくれるなんて」
「うん」

 その日の夜、仕事から帰ってきた父と一緒に、夜ご飯の食卓を囲んだ。父はまた、くわえていた鮭を置いて、食事にかかった。食事をしているときの父は、なんというか、普通のおじさんだった。巷で話題の、奇妙な鮭おじさん、というイメージからは程遠いというか、本当に普通の、働いているお父さんという感じ。
 食事を終え、鮭をまたくわえる父。その間、父のことをずっと見ていたので、ふいに目が合ってしまった。
「ほうした?」
 父が私の目線に気づいて、どうした、と言ったのだと思う。その父の鮭をくわえた顔と、間抜けな声に、うはは、と声を上げて笑ってしまう。
「お父さんやっぱそれ可笑しいよ。やめなよ」
 と言いつつ、笑いが止まらない私を見て、父も少し笑って、
「ほんなにほはひいか」
 と言い、くわえていた鮭を食卓の端に置いた。
「そんなに可笑しいか」
 もう一度父は繰り返し、私を見て嬉しそうに笑う。
「うん、可笑しいよ」
 私は腹を抱えて目に涙を浮かべながら、笑い続けた。

 その日を境に、街に鮭おじさんが現れることはなくなった。あれだけSNSで話題になっていたのに、今ではみんな、鮭おじさんを綺麗さっぱり忘れてしまったよう。きっと今でも鮮明に鮭おじさんの姿を憶えているのは私だけかもしれない。可笑しくてたまらない、鮭おじさんのあの顔を。

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