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自己責任

今日の社会においては、「自己責任」という概念は、社会の常識という枠を外れて行動し、失敗した(場合によっては失敗のコストを第三者が分担しなければならない状況を招いた)人間に対する「批判」の道具として用いられている。

「責任」の帰属先となる対象が、この社会には、質、量ともに圧倒的に不足している。個人、家族、国家、自治体、企業、教育機関、マスメディア。せいぜいその程度だろう。

責任の帰属対象が稀少資源なので、自分の持つ資源はできるだけ使いたくない。だからそれを自分以外の何者かに帰属させるために、社会の常識の枠を外れて行動し、失敗した他者を「自己責任」であると激しく「批判」するし、他者自身には収まりきらない責任の場合はその家族や所属する教育機関や企業などに批判の矛先は向かう。

個人や家族、所属する教育機関や企業などを過剰に責めるのも、すぐに国家を呼び出して規制や法制化を求めるのも、結局は同根である。それら以外に責任の帰属対象を見いだせないのだ。

もっと中間的な責任の帰属先が潤沢に存在していれば、そしてその「帰属先」が他者から突き上げられて浮かび上がってくるのではなく自ら引き受けたものであれば、さらにそれらの様々な帰属先との間にコミュニケーションの回路が開かれていれば、このような極端な責任帰属は行われないで済むだろう。

同様に我々には、責任の取り方、取らせ方に関する経験やリテラシーも圧倒的に不足している。「みなさまにご迷惑をおかけしました」「お騒がせして申し訳ありません」と自分の子どもが死の危険に直面している親に頭を下げさせることが、適切な責任の取らせ方なのだろうか。

一方我々は、「自己責任」によって何かの成果を実現した人間に対しては、今度は、実現には第三者や社会全体の力が必要であったはずだとの主張を基に、その成果を可能な限り分配せよ、と要求する。

誰かが失敗しても成功しても、その人間を引きずり下ろすことが主たる関心事になる。

こういう社会では、かかる状況を回避するために、可能な限り責任が自分に帰属されるような契機、成果の配分を他者に要求されるような契機を隠匿しようとする。当然の適応戦略である。

これは何を意味するか。「責任」「成果」といった概念が、コミュニケーションのために他者から観測可能な形で明示的に利用され、流通する可能性を著しく狭めているということだ。

本来ならば我々一人ひとりが、「安心して自己責任を担える」社会を創っていかなければならないはずである。自己責任とは、より大きな権力を持った第三者に介入されない「権利」であり、それを担うことは「誇らしい」ものであるべきである。そして、その結果を評価するにせよ批判するにせよ、自己責任を担ったこと自体に対しては前述の「権利」を守る同志として、敬意を表するべきである。

誇りを持って「自己責任」を引き受けることのできる社会を創りたい。

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