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渋沢栄一さんの名言! メモNo28

渋沢栄一の言葉 。論語と算盤

新一万円札の顔! 渋沢栄一‼️ 明治時代500の株式会社を作ったとか‼️著書に論語と算盤がある‼️ それと日本の社会福祉事業の創始者‼️
「富の根源は仁義、道徳だ」  
「善意だけでは長続きしない、したたかな計算を入れておかないと」
「福祉政策は最大の利益追求」
「貧民が多くなると、社会的に経済合理制に合わない」
「共感と相互信頼がないと、経済は発展しない」「信頼の連鎖」
「脳の両親をつかさどる部分と損得勘定をつかさどる部分は必ずしも一致して動かない」「貧しい人が救われないと本当の国家ではない」
「孔子の言わんと欲する所は、道理を有た富貴出なければ、むしろ貧賤の方が良いが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、あえて差し支えないとの意である」つまり富を求めると言うことはどうしようも無い!正しく富貴になることを求めると論語も言っている!
「富の根源がどこにあるのかというと、(仁義道徳だ)と言った」
「世の中全体が快適な状態になるシステムにしないと、利益は得られない」

◎人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。
◎全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。
◎一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。
◎事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。
◎たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。
◎金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。
◎死ぬときに残す教訓が大事なのではなく、生きている時の行動が大事なのだ。
◎信用はのれんや見た目から得られるものではなく、確固たる信念から生まれる。
◎真似をするときには、その形ではなく、その心を真似するのがよい。
◎数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。
◎反対者には反対者の論理がある。それを聞かないうちに、いきなりけしからん奴だと怒ってもはじまらない。問題の本質的な解決には結びつかない。
◎世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。
◎もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である。
◎商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだ。
◎一家一人の為に発する怒りは小なる怒りにて、一国の為に発する怒りは大いなる怒りである。大いなる怒りは、国家社会の進歩発展を促す。
◎自分が信じないことは言わず、知ったからには必ず行うという思いが強くなれば、自然に◎言葉は少なく、行動は素早くなる。
◎男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ。
◎ことに望んで感激すれば、おのずからやる気が出て奮い立つのだ。
◎大金持ちになるよりも、社会万民の利益をはかるために生きる方が有意義である。
◎日本では人知れず善いことをするのが上である。自分の責任はもちろん、他人の責任までも追うことが武士道の真髄とされる。
◎親から子に対して孝を励めよと強ゆるのは、かえって子を不孝の子たらしむるものである。
◎私は他人が掛物とか屏風とかその他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。
◎どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。
◎ ただそれを知っただけでは上手くいかない。好きになればその道に向かって進む。もしそれを心から楽しむことが出来れば、いかなる困難にもくじけることなく進むことができるのだ。
◎ 交際の奥の手は至誠である。理にかない調和がとれていればひとりでにうまくいく。
渋沢栄一の名言
人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。
渋沢栄一の名言
人を選ぶとき、家族を大切にしている人は間違いない。仁者に敵なし。私は人を使うときには、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。
渋沢栄一の名言
道は誰でも行うことができる。人はみな道を行うだけの力がある。ただその道と力との大きさに差があるだけである。
渋沢栄一の名言
限りある資産を頼りにするよりも、限りない資本を活用する心掛けが肝要である。限りない資本を活用する資格とは何であるか。それは信用である。
渋沢栄一の名言
有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だがこれは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら資本ができぬはずがない。愚痴をこぼすような人は、よしんば資本があっても大いに為す人物ではない。
渋沢栄一の名言
四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ。
渋沢栄一の名言
論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。
渋沢栄一の名言
できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である。
渋沢栄一の名言
信用はそれが大きければ大きいほど、大いなる資本を活用することができる。世に立ち、大いに活動せんとする人は、資本を造るよりも、まず信用の厚い人たるべく心掛けなくてはならない。
渋沢栄一の名言
お前は自分の立場に忠実なのは結構だが、同時に恕、つまり相方の立場も理解してやるという広い気持ちを持たねば、世の中に円満に処していくことはできない。
渋沢栄一の名言
大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは決して進むべきではない。空論に走り、うわべだけを飾る国民は決して真理の発達をなすものではない。
渋沢栄一の名言
富者をうらやんでこれを嫉視するのは、自分の努力の足りぬ薄志弱行のやからのやることだ。幸福は自らの力で進んでこれを勝ち取るのみだ。
渋沢栄一の名言
夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。
渋沢栄一の名言
余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする。
渋沢栄一の名言
得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、常操をもって道理を踏み通すように心がけて出ることが肝要である。
渋沢栄一の名言
我も富み、人も富み、しかして国家の進歩発達をたすくる富にして、はじめて真正の富と言い得る。
渋沢栄一の名言
真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。
渋沢栄一の名言
そもそも多能は聖人の本色ではないとしても、多能なるくらいの種々の経験ある人にあらざれば真正の聖人となり得ざるべし。
渋沢栄一の名言
人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。
渋沢栄一の名言
心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。
渋沢栄一の名言
大なる立志と小さい立志と矛盾するようなことがあってはならぬ。
渋沢栄一の名言
一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。
渋沢栄一の名言
お金をたくさん集めて、たくさん使うことで社会を活発にし、経済の発展を促すのがよい。お金持ちはよく集めると同時に、よく使わなければならない。
渋沢栄一の名言
不言実行と共に、また有言実行も大いによろしい。
渋沢栄一の名言
長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。
渋沢栄一の名言
我が人生は、実業に在り。
救貧…お腹が空いている人に魚をあげる!
防貧…釣竿と釣りの仕方を教えてあげる!

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渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)にて、豪農・渋沢市郎右衛門の長男として1840年2月13日に生まれた。母の名はエイ。幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。渋沢家は藍玉(染料)の製造販売と養蚕を行った他、米、麦、野菜も作っていた半農半商であり、原料の買い入れや販売などのため「算術」も求められる家であった。幼い頃から父から学問を学び、従兄弟の尾高惇忠からは本格的に論語などを学んだ一方、渋沢栄一は子供の頃から父と共に、信州や上州まで藍を売り歩いており、藍葉を仕入れたりもした。そして、14歳の時からは一人で藍葉の仕入れに行くようになり、この時の経験が明治に入り現実的な合理主義への思想に繋がったとされる。

1853年にペリー提督が来航すると渋沢栄一と従兄・尾高惇忠らは尊王攘夷思想の影響を受け、江戸などに向かった。北辰一刀流の千葉道場でも剣術を学んでいる。1859年、19歳のとき、尾高勝五郎の3娘・千代子(尾高惇忠の妹)と結婚。1863年には高崎城乗っ取り計画や、横浜の外国人居住地焼き討ち計画などを立てるも、尾高惇忠の弟・尾高長七郎は京都での見聞から懸命な説得を受けて中止し、京都へ向かった。京では江戸遊学の頃から交際していた一橋家の家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えることになった。そして、一橋家の領内を巡回して農兵募集に携わったり、兵糧の売買で実力を発揮し、勘定組頭にまで昇進している。27歳のとき、一橋慶喜が第15代将軍・徳川慶喜となると幕臣として陸軍奉行支配調役となり、1867年1月11日には水戸藩主・徳川昭武に随行してフランスへ渡航し、皇帝ナポレオン第三世や、イギリスではビクトリア女王にも拝謁。パリの万国博覧会を見学したほか、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通じた。また、この時シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーから語学も学んだ。フランス滞在中に日本では大政奉還となり、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利。1868年(明治1年)5月、明治新政府から帰国を命じられ、9月4日にマルセイユから帰国の途につき、11月3日に横浜港に帰国した。帰国後、駿府にて謹慎中の徳川慶喜と面会すると「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を受け、静岡藩からは出仕を求められたが、明治2年1月に静岡で「商法会所」を設立した。しかし、大隈重信に説得されて10月に大蔵省に入省すると、大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わって行った。富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わっている。1873年(明治6年)に予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、井上馨と共に退官したあとは、民間経済人として活動し、第一国立銀行(みずほ銀行)の頭取に就任した。渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は生涯で500以上と言われている。
また、東京慈恵会、日本赤十字社など約600の医療機関や教育施設 ・社会公共事業などの支援にも尽力。井上馨に乞われて、新島襄の同志社大学設立や、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立して、広岡浅子・成瀬仁蔵の日本女子大学校や、東京女学館の設立にも携わった。 明治15年に、千代子(ちよ)夫人が死去。 翌年、伊藤兼子と再婚している。
明治23年、貴族院議員。明治25年(1892年)7月19日には、民間人で初となる勲四等瑞宝章を叙勲。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務めて義援金を募るなど国際貢献もしている。1928年(昭和3年)11月10日には旭日桐花大綬章、昭和5年(1930年)5月21日には紺綬褒章飾版。昭和6年9月、満州事変が勃発し、日本が長い戦争の道のりを歩み出した頃、渋沢栄一は既に体調が悪く、10月には腸閉塞を起こす。そして、多くの人々に惜しまれながら飛鳥山邸にて、昭和6年11月11日、91歳の生涯を閉じた。
日本の産業や教育の発展に大きく寄与し、数々の功績を残したのは間違いのない事実である。元号が令和に変わり、新しい1万円札の肖像画に渋沢栄一が検討されていると報道もされた。 

福祉家渋沢栄一、弱者を切り捨てる言葉”惰民”を認めず、「論語と算盤」を貫いた生涯を日本人として知っとくべき!
明治初期
明治の初め、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。
しかし、その頃はそう言った人たちを収容するだけの施設でしかなく、その人たちの更生目的もなく、施設自体をどう維持していくのかも考えられてなかったのです。
渋沢栄一は1874(明治7)年、東京府知事大久保一翁(忠寛)より養育院の設置資金にも使われた、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金”七分積金”の運用を貧困者の救済のために使ってほしいと依頼されます。
その時、170万両(現在の170億円相当)を明治政府が一部インフラ整備に流用し、おそらく残りを狙っていたのでしょう。
渋沢は養育院の現状を目の当たりにし、社会全体で事業として確立させなければならないという思いで養育院を通して福祉活動に非常に深く強く入り込むことになります。
1876(明治9)年5月11日、渋沢は養育院事務長に任命され、七分積金を使い、寛政の改革を行った松平定信の更生システムを基として、近代的な診療設備や職業訓練所を設け社会復帰を支援、子どもの学問所を作り知識を身に付けさせたり改革をすすめました。
明治12年以降
養育院の運営は1879(明治12)年以降、東京都の税金を使われるようになってました。
明治政府が富国強兵政策を強く進めていた流れの中、1881(明治14)年、東京府議会での養育院廃止案が提案されます。
「貧民を救うために多額の税金を使うことはやめるべき」と。また、田口卯吉は渋沢を批判「渋沢がやっている、税金で貧民を助けることは”惰民”を増やすだけ」とも。

「貧しい人を助けることは、日本の資本主義を豊かにするためにも、必要なこと」と主張する渋沢。今後の選択が迫られます。
渋沢栄一の選択
社会福祉事業は政府・自治体のバックアップが必要、税金で維持するか民間資金で運営継続するしかないのどちらを選択したのでしょうか?
渋沢は議会で懸命に反対しましたが、1884(明治17)年をもって公費支出の停止による東京府直営制は廃止されることが決定されました。
そこで、渋沢は養育院の所属は東京都のまま渋沢が運営をする形(委任経営)を申し込み、民間資金で運営を継続を選択したのです。
渋沢は、東京府病院貯蓄金の利子、元養育院敷地の売却、鹿鳴館でのバザーなどで運営資金を確保(現在の6,800万円)相当し養育院の存続に奮闘し、多くの経済人から寄付を仰ぎ、存続することができたのです。
東京養育院の資金は1885(明治18)年は3万5,031円(約2億9,800万円相当)が5年後の1890(明治23)年には11万8,104円(約8億8,500万円相当)に増えたのです。
その後、東洋一の施設となります。
“惰民”という貧しい言葉から見える日本人の国民性の傾向
実は今回の放送で、一番心に残ったことは脳科学者中野信子先生のお言葉でした。
惰民という言葉は自己責任という言葉とリンケージがあると思いますけど、非常に貧しい言葉と思います。
惰民にしてしまうのは、その人の責任より構造上の問題の方が原因としてははるかに大きいと思うのです。
江戸時代、ずっと、村請制という連帯責任で治めたから、働かない人がいると、自分が払わされるという気持ちがあるので、日本は働かない人だけでなく、働けない人への否定感が非常に強い国民性があると思う。(ここだけは磯田先生のお話)
日本人そういう傾向が強いのです。自分は誠実にまじめにやって成功した。だから、成功できないのは誠実にまじめにやってないからという認知がなりやすい。想像力が足りないと言えばそれまでなんですけど、自分は頑張ってきたという自負があるから攻撃性が高くなるのです。
世界大恐慌の影響での困窮者、没1年前救済に動いた渋沢
1909(明治42)年、70歳になった渋沢は経済界(銀行を除く)から引退しますが、社会福祉活動は終生つづけました。
1929(昭和4)年、世界大恐慌の影響で日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われました。国会で救護法が制定されました。しかし、予算がないを理由に政府は実施を先延ばしします。
福祉事業家たちは、最後の頼みの綱として91歳、病気療養中の渋沢に救護法実現への協力を仰ぎました。
そこで、渋沢は「私はもうどれだけ生きられるかわからない」「私の命をみんなに与えていくのは本望だ」と、大蔵大臣に面会し、「私たちが一生懸命に働いてきて、日本の経済をこのようにしたのは、この時こそ皆さんに役立てて頂きたいからでありました」「渋沢の最後のお願いです。救護法を実施してください」と、申し出ました。
2年後、大蔵大臣は予算を工面し、救護法を実施し、24万人もの人々が救護されました。
渋沢栄一が一万円札の図柄なった理由は、事業家として凄かっただけでなく社会福祉家としての両方を兼ね備えた方だったからという認識ですが、後者の功績の方が大きく、今求められてるものだととわたし自身は思います。
渋沢の講演会での肉声が番組内でありました。
「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する」「ただし、それに伴う肝要なる道徳仁義というものがともに進歩していくかと言うと、残念ながら「否」と答えざるを得ぬ」「仁義道徳と生産殖利というものは元来ともに進むべきものであります」と。そうですよね。便利が先に行きすぎて、便利にしなったことに対して感謝する時間も余裕もなく、次の便利が目の前に現れる今の社会では、仁義道徳の心や倫理感の遅れてる気がします。これ以上の便利は本当に必要なのでしょうかね?生きていくために、仕方なく必要としていかなければならないような世の中になってるような気がしますが…便利が、生活していく中でこれ以上必要でないのに、必要としてないとお金に困る可能性が高い社会は構造上の問題なのか明確にはわからない世の中だから、生活水準が低いわけではない日本でさえも生きていくことにおいて不安なのでしょうね。他国も同様だから、富国強兵、ナショナリズムに世界が向かいつつあるのかもと考えてしましました。

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