「反出生主義」特集を瞥見しての断想

「反出生主義を考える」という特集が組まれた『現代思想』を買った。全部は読んでいない。いくつかの論考を眺めた程度だ。知り得たのは、いま哲学では下記のような問いが真面目に議論されているということだった。

・生まれないほうが良かったのか。

・翻って、生まれないほうが良いような世界に子どもを産み落とすのは悪なのか。

・人類全体として、ゆっくりと絶滅に向かうのが善なのか。

このnoteを書き始めたのは、この議論の整理を試みるためでもなければ、自分の意見を表明するためではない。僕はそもそも、このテーマについて何も考えることができない。その「考えられなさ」について、少し書いてみたいと思ったにすぎない。

「生まれてこないほうが良かったのか」。こういう問いが立てられた瞬間、僕の脳はフリーズする。問いに向き合うことそのものに、本能的な危険を感じ取ってしまう。小学5年生のころ「生きることに意味はない」ことに気づき、1週間ほど激しい虚無感に苛まれたことがある。あの深淵を二度と見たくない。その機序が働き、自ずと脳がシャットダウンする。

それでも、普段は人より深く考えないと気がすまないほうだ。意味のないことをするのは嫌いだ。AをするのはBのため。Bはなんのため? Cのため。しかし、「生きるのはなんのため?」まで行ったらおしまい。そこから先は考えてはいけない。

人類が存在し、自分が生きていること、そして数年前に傍らに自分の子どもが生きていることを不問の前提にすることでしか、何も考えられない。だから、『現代思想』の寄稿者たちをはじめ、反出生主義を正面から受け止められる哲学者たちは心が強いと思う。

しかし一方で、次のようなことも考えた。気候変動に関してだ。

思うに、自分を含め多くの人が気候変動を十分に恐れないのは、「人類の危機」よりも「自分がいずれ死ぬという事実」のほうが圧倒的に大きいからだ。自分はどうせ死ぬし、人生に意味はない。それをうっすら分かっていながら、全力で「棚上げ」している。死を棚上げすることに精一杯な者にとっては、人類の滅亡は瑣末な問題となる。海面上昇+巨大台風で東京ごと水没しようが、病院のベッドで永眠しようが、自分が死ぬのはおなじだからだ。

そう考えると、気候変動についてまともに考えるためには、まずは自分の死について棚から下ろすことから始めなければいけないのかもしれない。それは「生きることの意味」に踏み入れることをも意味するだろう。

しかし、そうであっても、僕自身は「生まれてこないほうが良かったのか」や「子どもを生むのは悪なのか」という問題圏からは全力で逃げ続けるだろう。それが、自分が生き続けられる条件のように思えるから。

この投稿は東海道新幹線のなかで書いている。先ほど、となりに座っていた年配の女性が、トレイの上に広げていた『現代思想』の表紙ページを見て、声をかけてきた。「なんか難しそうやね。哲学やね。あんまり考えすぎると頭がおかしくなってしまうね」。頷いた。


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