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「一瞥体験」と「解放」はまったく別物

一瞥体験は起こるときには起こる。
私に起きた一瞥体験は、恍惚と表現すれば良いのか、正確に伝えることはできないけれど、絶対的安心感「ザ・至福」的な感覚だった。
すべてがなく、一体感、子宮の中の赤ん坊とでも言おうか、涙が溢れて止まらなかった。

一瞥体験を悟りを得たとか、到達点や目指すところにしてしまう人もいるけれど、それと解放は全く別。
一瞥体験はただの「私のストーリー上の一時的体験」であり、それは継続しない。
ただしくはいつも一瞥の中にいるけれど、「私の感覚」としてそれを味わうことはできない というのが正しい。

その本当にあるものを一時的に体験し、言葉で表現したのが「一瞥体験」。

解放というのは、悟りの状態を指しているわけではない。
悟る状態を得る というのは本当の悟りではないのと、得る誰かはいないから。

解放というのは、悟りを経験したい、楽になりたい、何かを解決したい等の探求が終わること。
ただ、探求は終わるけれど苦難がなくなるのとも違う。
「俯瞰」して何かを見ることとも違う。

喜怒哀楽もあらゆる感情も湧き起こる。

ただ、その感情をどうにかしよう、現実を変えたい、変えようがなくなる。

ということだ。


一瞥体験後はそれが何かを探求したこともある。
その後に何度か起きる一瞥体験もあったが、それが求めているものではない。
一瞥が起きれば苦悩がなくなると思っているうちは、そこではない。

何度かの一瞥体験の後に起きたこと。
それが解放。
これはある日突然、自宅内で起きた。
体や肩の力が抜け落ちるかのようなそれ。
一瞥に似ているけど、似て非なる。
「私」からの解放。

私がどうにかしたい、私にとって良いものを得たい、
私にとって良い状態でありたい、
そこからの解放。

知識でそうなりましょう ではない。
それが起きると、ただの今の連続でしかなくなる。

全肯定をしようではなく、全許容しかなくなる。
肯定とかくと否定があるけれど、すべてがある。
そして「私」という幻想からの解放。

それをみんな求めて、「私が幸せである何か」それを探している。
みんな求めることと正反対のことをし続けている。

これは理解はできない。
起きないとわからない。

解放も起こすものでもなく、その状態を保ち続けるとかでもない。

そして、起きても何も変わらない。



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