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ホットミルクの距離感

午後8時、いつも通り息子の颯太の帰りが遅い。武藤彩夏は、こんな大事な日なのに、きっとあのバカ息子のことだからまた余計なことをしているのだろうと呆れていた。キッチンにはホットミルクをかけた鍋がいい具合にコトコトと音をたてている。ホットミルクは、隣に住む七絵の好物だ。

火を止め辺りを見渡す。夕食の準備も済ましてある。少しだけ時間があるようだし、この際いつもやらない本棚の整理でもしようかと腕をまくった。キッチンにある椅子を両手で抱える。新築祝いに貰ったテーブルも随分古くなった。それもそのはずだ。もう20年も前の話だ。夫の博幸と家族3人、出来たての料理をこのテーブルで囲んでいた。

椅子をリビングのピアノの横につけると、彩夏は取りつけの本棚に手を伸ばし、倒れかかったままになった本を掴もうとしていた。家を建てるときに、本が好きだった博幸が、どうしてもと作った本棚だったが、何より使い勝手が悪かった。彩夏は150センチほどの小柄で、棚の高さは長身だった博幸に合わせたものだ。並んでいるのはピアノの楽譜か洋書、大抵、博幸の好きなものが並んでいた。

博幸は、音楽が大好きな人だった。小さなころからピアノを弾くのが趣味だったらしい。博幸は、颯太が3歳になる頃、ピアノを教えたいと言い出した。家のローンが残っているからと彩夏は反対したが、懇願する博幸に根負けしてピアノを購入することにした。もちろん颯太はそんなものには全く興味がなく、ピアノはいつしか博幸しか弾かなくなった。

そんな時、隣に永田家が引っ越してくる。両親ともに共働きだったせいか、娘の七絵は小さなころからしっかりとしていて、家に遊びに来ても我儘一つ言わない子どもだった。そんな七絵が博幸のピアノを大変気に入り、どうしても習いたいと言い出した。七絵の両親は、迷惑をかけるからと最初は反対したが、頼まれた博幸があまりに喜んでいるので、それならばお願いしたいと了承してくれた。

七絵は幼稚園が終わると毎日のように家に来た。晩ご飯を一緒に食べることもしばしばあって、彩夏にとって七絵は颯太と同じように愛おしい存在となった。七絵のピアノの上達は早く、小さなコンクールで賞をとったこともある。それに味をしめた博幸が会社を辞めてピアノの先生になろうかと言いだした時には、いくら彩夏でも賛成することはできなかった。今になると、そうさせておけばよかったと後悔している。設計の仕事をしていた博幸は、建設現場に足を運んだ際、不慮の事故で死んだ。まだ颯太が7歳のころだ。

最後の本を並べようとした瞬間、ドサドサとアルバムが何冊も彩夏に向かって落ちてくる。
「あぁ、もう」 
苛立ちながら椅子から降りると、散らばった写真の中に、幼いころの颯太と七絵が見えた。来月で23歳を迎えるわが子にこんな時代があったのかと思いだす。どの写真にも必ず颯太の隣に七絵がいる。

「母さん、結婚しようと思う」
颯太にそう言われた時、彩夏は思わず颯太を抱きしめた。子どもだと思っていた颯太の顔は、いつの間にかぐっと大人になっていた。博幸がいたら、どんなに喜んだだろうか。そう思わない日はない。

「ただいま」
今日は特別な日だ。ようやく、颯太が帰ってきた。颯太の隣には、変わらず七絵がいる。七絵との結婚を、何処か照れくさそうに言い出せない颯太の顔は、若い頃の博幸にとても似ていた。
「まぁ、座って」
彩夏は、溢れる涙を堪えるように、キッチンへと急ぐ。颯太の横で幸せそうに微笑む七絵は、あの頃の自分を見ているようだった。

好物のホットミルクを差し出すと、七絵は子どものように笑う。それを颯太が、愛おしく見つめていた。颯太と七絵の距離感はずっとあの頃のまま、ホットミルクのように温かかった。

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