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それでええよ

 小さな手は、マシュマロみたいに柔らかい。夕暮れ時、虹郎の手を引き、歩くこの時間が、私を幸福にしてくれる。
「なぁ、今日はなに作るん?」
「そやな、カレーにしよか」
 虹郎は、大好物のカレーに、やったー、と大きな声を出した。
「この牛肉、お願いします」
 お会計を済ますと、虹郎は僕が持つよ、と言った。
「ええよ、重たいから、母ちゃん持つよ」
「ええよ。母ちゃん、早く手、治さんと、仕事クビになるで」
「ええの?」
「ええよ」
 来年、小学生になる虹郎は、日に日に成長しているように思えた。
「早く治して、ぎょうさんクリーニングでアイロンかけてな」
「はいはい」
 虹郎は、そう言うと駆け出していく。
「ほら、あんまり走ったら危ないで」
 振り返る虹郎は、こんなに速く走れるようになったんだと自慢しているようだった。
「なぁ、母ちゃん」
「なに?」
「早う元気になってな」
「なぁに、元気よ」
「僕は大丈夫や」
「なに言うてんの。早く一緒にカレー作って食べよう」
「母ちゃん、僕、先行くで」
「待って、母ちゃんそんなに速く走れんで」
「母ちゃん、ゆっくりでええ」
「待って、母ちゃんも行くて」
「来んでええて」
「なんでよ」
 虹郎は、立ち止まると、にっこりと笑った。
「ちょっと待って。母ちゃん、追いつかへん」
「それでええ、それでええよ」
 手を振ると、 虹郎は、また、どんどん先に走り出していった。
「待って!」 
「お客さん、虹郎くんのお母さん!」
 呼びかけに振り返る。すると、先ほどの肉屋の店主が袋を手に後を追いかけてきていた。
「忘れ物!」
 差し出されたのは、さっき買った牛肉だ。
「私のは、虹郎が。誰かの間違いじゃないですか」
 店主は、戸惑った表情をしながら、私の手に牛肉の袋を乗せた。
「災難やったなぁ。元気、出してな。そうせんと虹郎君も天国で浮かばれん。あんたも、早くその手の火傷治して」
 私はハッとする。あの日も、虹郎の喜ぶ顔が見たくて、夕飯はカレーにしようと思っていた。牛肉を買い忘れた私は、虹郎を一人アパートに残して商店街に向かった。しばらくすると、鳴り響くサイレンに、商店街は騒然とする。
 胸騒ぎを覚えた私は、急いでアパートに向かった。燃え盛る炎に包まれるアパートを見て、気が動転した私は、炎の中に向かおうとした。周りの制止に何度も何度も、行かせて、と声を荒げた。

「命、大事にな」
 肉屋の店主は、私の手をぎゅっと握りしめて去っていく。
 今日、虹郎に会いに行こうと、私は決めていた。カレーを作って、虹郎の元へ行こうと、そう決めていたのだ。
「虹郎、母ちゃん、生きててええんかな」
「ええよ、それでええよ」
 虹郎の声が聞こえた気がした。

 

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