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自己紹介

僕の数ある「苦手なこと」のひとつが「自己紹介」だ。
初対面の人と話すのは得意だし好きだけど、「それでは自己紹介してください」と言われた途端、苦笑いを浮かべてしまう僕だが文章なら書けるかもしれない。うまく書けるかわかりませんが年齢別の略歴に交えて書いていきます。「へぇ、こんな人もいるのね」と誰かの目に留まれば嬉しいです。

●0~10歳
京都市伏見区にどちらもAB型の両親の間に3人兄弟の末っ子として生まれる。3人兄弟とはいえ1番上の兄とは13歳、その次の姉とは10歳も離れているので兄弟で遊んだ記憶は無く、いつも母の後ろにくっついてる1人っ子のような感覚で育つ。当時はまだバブルの残り香が漂っていた時代で、両親が一念発起して商売を始めたのだが程なくして父が重度の鬱病になり悲惨な家庭環境がスタート。どちらかというと引っ込み思案で大人しく、商売人ばかりの大人たちを見ていたせいか人の顔色ばかり気にする子だったが、唯一の救いは学校だった。小学校では明るい人気者グループに属していたし楽しかった。

●11~14歳
家の商売を1人で切り盛りし、軌道に乗ってなんとか自信を付けた母と、毎日朝から晩まで居間の定位置で横になっている父との間に心の乖離が激しくなっていく様を見ながら生活を送る。「友達のお父さんはああなのに」ってよく思ってました。ある日「父を捨て家を出よう」と決心した母に付いて行く形で小学5年生の5月というめちゃくちゃ中途半端な時期に転校を余儀なくされる。どうしても転校したくなかった僕は4月中は京都市郊外から電車を2本乗り継いで校区を越境する形で通っていたが、それが教頭先生にバレて「そんな危ないことさせるな」と母は怒られ、転校手続きを取らされることに。大人の強制力に子供は逆らえないものだ。悲しかった。転校先の田舎の小学校では特有の空気に馴染めず、都会の小学校から来た僕の雰囲気が気に入らなかったのか靴を隠されたり鞄をひっくり返されたり何故か嫌がらせを受けつつ友達ゼロの状態で転校先の小学校を卒業し、その校区の公立中学校へそのまま進む。楽しかった思い出はひとつもない。マジで。

●15~19歳
鬱病から少し立ち直った父が家族に再ジョイントするも今度はアルコールに傾倒するようなり、母と毎晩のように殴り合いの喧嘩を繰り広げる。近所から「ああ、あの家は…」と同情の目で見られていることが辛かった。夜中にパトカーが何度も来た。ある日、感極まった母がキリンビールの大瓶で父の頭を叩き割ろうとした光景を今でも覚えている。もはやプロレスかと。その傍らで僕は無言でその破片を拾った。誰も怪我しないようにと。兄と姉はこんな家に嫌気が差して既に家を出ており、僕は高校3年間は父と1度も口をきかなかったし、家を出て1人暮らしがしたいが為に大学進学を心に決め、受験に合格し18歳で大阪へ引っ越す。ところが生活環境の変化で体重が激減しアトピー性皮膚炎が再発。賄い目当てで面接を受けた焼肉屋で大学4年間アルバイトすることに。ここから毎日の生活が好転し、大学にもバイト先にも仲間ができてそれなりに青春を感じつつ、授業ほったらかしてバイトと女の子に夢中の大学時代。

●20~24歳
大学時代は音楽と映画と読書にハマる。遅ればせながらのエンタメカルチャーとの出会いは無趣味だった僕の中で大きなトピックとなり、バイト代を突っ込んでひと夏に何本も夏フェスに行くようになる。酒と煙草を覚えたのもこの頃。そんな矢先、高校時代からの親友が車の事故で22歳を目前に急逝する。半年ほど立ち直れずにいた。そろそろ就職を考えないといけない時期に差し掛かっており、当時インターネットが広まりつつも情報取得はまだ紙媒体メインだったのと、通っていた大学の性質もあってエンタメ業界に進みたいとぼんやり考えるが自己肯定感が著しく低かったため新卒で49社にエントリーするも全滅。しかしながら京都に帰って家業を継ぐ気なんてサラサラ無く、大阪に居続けても同期はみんなバラバラになっちゃったのでそのままなんとなく東京に行くことに決める。

●25~29歳
上京当初も居酒屋などでバイトしながら生計を立てていた。朝まで食玩を段ボールに詰めるだけのバイトもしたな。その後一旦飲食をやめて音楽事務所やライブハウスのバイトを転々。常にお金は無くて、借金こそしなかったがカツカツの状態が2年ほど続いて埒が明かずやむなく京都へ帰ることに。ここで大きな敗北感を味わう。京都に帰ってからも両親の商売を継ぐ気はなく、たまに昼職の面接を受けにいくもあまりうまくいかず、また夜の世界に飛び込んでバーテンダーを始める。やがて夜の世界を通して京都の様々な人を知る。「世間とは是即ち金とエロで構成されている也」とある種の正しい認識を持つようになり、小さな成功と小さな失敗を繰り返すうちに俯瞰で物事を見れる思考の基礎ができていく時期だった。従業員として水商売の世界にどっぷり浸かっていたが「いつか自分の店を持ちたい」という夢は特に抱かなかった。

●30~34歳
父が末期の胃がんに罹っていることが判明。本人の希望もあり入院せず実家で母と2人で看病することに。あんなに嫌いだった父が日が経つにつれ自力で立つことも食べることも喋ることもできなくなっていく様子を間近で日々見ていると可哀想になってきた。風呂でほとんど骨と皮だけの体を支えながら小さくなった背中を流してると涙が溢れた。その2か月後に父が死去。最期を看取った。しばらくして状況が落ち着いた頃に「一緒に店を出さないか」と以前働いていたBARのお客様を通じてお声が掛かり、ダイニングバーの立ち上げに再びバーテンダーとして参加することに。お店のコンセプトを決めたりメニューを考えたり、オープン準備に追われる怒涛の日々が始まる。オープンしてから順調に客足は伸び、毎日12時間は店に立つ日々。体力的には辛かったが仕事は充実はしており、お店を通じて知り合う人間の幅が爆発的に拡大し自分の感性が追い付かない日々だったが生活の充実感がそれを勝っていた。

●35歳~現在
立ち上げから参加したお店はオープンから短期間で軌道に乗ったがオーナーの不倫問題や売り上げの落ち着きでオーナーが苛立ち始め、給料未払い4ヵ月を喰らう。水商売の給料未払いは過去にも経験があったので貯金はしていたがオーナーとの関係は悪化の一途。「店長と結託して売り上げを盗んでいるだろ」などと難癖をつけられまくりオーナー意向で店は閉店。赤字閉店ではなく人気店に手が届くところまで来ていただけに常連のお客様には閉店を惜しまれたが、お金のイザコザでその頃すっかり水商売に嫌気が差していた為、「もう昼間働こう」と大して興味もない不動産会社に契約社員として就職。そこもまた「昭和詰め合わせブラックギフト」みたいな会社だったので半年で退職し、たまたま試験に受かった某外資系企業に転職。父の死後、なんとなく兄が継いでいた実家の商売が一気に傾き始めたことを母から聞かされ、今後に向けての話し合いを持つも兄が半ば投げ出す形になり業態変更に悩む日々。なんとか収益を出して母を食べさせねばとあれやこれや忙しくしているうちに会社の上司に「いやお前会社の仕事全然してへんやんけ」と英語で言われ契約解除。

そして現在、それなりに危機的状況ではあるが、働くとは、仕事とは、幸せとは、年齢とは、お金とは、人とは、を考え学ぶ有り難い日々を過ごしております。仕事ください。


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以後お見知り置きください。
がんばって毎日更新していきます。


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