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【小説】生まれる

「怒る」事が出来ない人間だった。
営業の成績が上がらない部下の机を蹴り飛ばすおじさんとか、
道で肩がぶつかっただけの相手に怒鳴り散らす怖い顔のお兄さん、
自分の友達を悪く言われただけで、早口で反論をまくし立てる女子高生。
そんな人たちをドラマや映画の中でよく見るけど、あんな風にストレートに感情表現する事は私には出来ない。
そして、そうなりたいとも思わなかった。

だから、殺しちゃったのかな。

人には優しくしなさい、人の嫌がる事はしちゃダメですよ、人の為になる事をしましょうね。どこの学校でも、どこの家庭でも当たり前に習うような事を、私も当たり前に理解し、その通りに、汎用的に行動してきたつもりだった。
だけど、それはいつしか私に優しさという仮面を被らせる事に変容してしまった。内心では誰かに対して怒りを覚えたとしても、それをアウトプットする事に強い抵抗を感じてしまう。
「気にしてないよ」「大丈夫」「平気」「私の事はいいから」息をするように当たり障りのない言葉だけを繋げて、相手の顔色を窺い、なるべく波風が立たないよう、平穏を装い、その場を収める。誰かが不利益を被る事がある時は率先して、自分が犠牲になるように努めた。
仮面はどんどん私を侵食し、いつしか全身を黒く染め上げてしまった。そして、いつからか私は涙する事もしなくなった。

作った料理が不味いからと殴られ、家事が遅くて蹴り上げられ、罵詈雑言の雨を浴びせられたが、私は早くこの嵐が過ぎ去ってくれと願いながら、ごめんね、私がいけなかったの、ごめんなさい許してください、もうしませんからとひたすらに繰り返した。

どこかの家のトイレが流れる音がした。それ以外は何も聞こえないぐらい静かな夜で、窓の外はいつもと変わらない闇夜を映し出していた。
真っ赤に染まった手のひらを見て、我に返る。「さっきまで夫だったモノ」を見下ろしながら深呼吸をする。何が引き金になったのかは覚えていない。途中の1巻だけが抜けている長編漫画のように、10分前の映像だけが脳内からすっぽ抜けているが、そんな事はどうでもいい。私に仮面を剥がすきっかけをくれて、ありがとう。心の中で呟きながら、血染めのスウェットを脱ぎ捨て、洗面所に向かい、手と顔を洗った。こびりついた血が排水溝に流れ込んでいくのと同時に、私の全身にも新しい血が流れ込んでいくようだった。鏡に映った自分は見たことのないような自信に溢れた、活力を帯びた表情をしていた。
寝室に向かい、以前夫に「お前にそんな高価な服を着ることは許した覚えがない」と投げ捨てられ、慌ててゴミ集積場まで回収しにいった淡い水色のワンピースに着替える。もう1度洗面所に向かい、メイクをして、ピンクのマニキュアを塗った。乾くのを待つ間、スマホを手に取り、全てのSNSのアカウントを削除する。今日私は2人の人間をこの世から消し去った事になる。

さようなら。クソみたいな人間など死んで当然だ。

財布とスマホだけをポケットに入れ、玄関を出た。真夜中ではあったが、私には晴れ渡る朝のように見える。背中でゆっくりドアが閉まっていく音を聞きながら、小さく伸びをして、気を落ち着かせる。本当は鼻歌でも歌いながらスキップでもしたい気分だけど、心のどこかで気恥ずかしさもあったので、控える事にした。

いや、今日からの私は今までの私じゃないんだ。今までできなかった事、やらなかった事をやりたいようにやろう。スキップでマンションの廊下を駆け抜けていく。数十年ぶりにやったスキップは上手く足が動かなくて、途中でもつれてしまったけど、さながらミュージカル映画の主人公のように思えてきて、自然と笑みが零れてしまった。バカみたい。だけど楽しい。

私は今、生まれた。


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