四神京詞華集/NAMIDA(12)
【怪人どもとワタシ】
○尊星宮・拝殿
鏡のように磨かれた板敷の上で呑気に目覚める慧子。
高い天蓋に描かれた極彩色の仏が慧子を見下ろしている。
北斗七星を光背に、剣を手にして装飾を纏った物々しい姿だったが、慧子にはあまり有難味は感じられなかった。なぜなら。
慧子「なんだ。菩薩か……」
???「罰当たりめ」
その視界を宮比羅面が遮る。
慧子「きゃあああっ!」
跳ね起きる慧子。
そしてすぐさま猛スピードで這って逃げて壁に激突する。
宮比羅面の大男、狛亥丸は申し訳なさげに肩をすくめた。
狛亥丸「ああすみません。驚かせてしまって」
慧子、訝し気に狛亥丸を見つめる。
狛亥丸「覚えてらっしゃいますか? 蝮山でお会いした」
慧子「……あ」
面の形までは覚えておらず衣も麻の袍に表袴という、今回は極めて常識的な姿であったが、その巨躯は慧子が出会った男達の中に二人といない。
狛亥丸「狛亥丸と申します。しがない穢人にございます」
慧子は不思議とその口調と声色に違和感を覚えた。
どうもみずみずしさがないし、何より疲れたように野太い。
記憶違いか思い出補正か。
はっきり言って今は中高年の生態を思わせる声帯であった。
慧子「いつぞやは」
慧子のほんのり感じていた美しい大胸筋の君への淡い一目ぼれにも似た夢想は、この現実を受け入れた時点であっさり完結した。
後頭部の痺れとともに。
慧子「っていうか痛いんですけど」
狛亥丸「すみません」
慧子「やはりあなたの仕業でしたか」
狛亥丸「気でも失って頂かねばならぬほどに冷静さを欠いておられたようでしたので」
慧子「あ、あれは芝居です。鬼のフリをしていただけだし。溺れたフリをしていただけだし」
???「遠慮なくうなされおって」
慧子「うなされたフリをしていただけだし!」
???「五月蠅い。読書の邪魔ぞ。目が覚めたなら出てゆけ」
釣り上げられたしとみ戸の向こう、簀子に座って本を読んでいる男が、目も合わせずに吐き捨てた。
何の特徴もない、愛想もない、記憶に残らない顔をした男だった。
しかしその異様な装束だけは忘れようもなかった。
武礼冠に闕腋袍、そして紫色の長い襟巻。
のこのこ夢にまで出張ってきたあの山の怪人だ。
狛亥丸「そうは申されましても穢麻呂様。三日三晩眠り続けていらっしゃったのですよ。さあ、まずは何か胃に優しいものでもご用意いたしましょう」
狛亥丸、外へと出てゆく。
慧子「き、穢麻呂?」
穢麻呂「ふん。雨水でも飲ませておけばよいのだ」
慧子「穢麻呂!」
穢麻呂「殿くらいつけよ。小娘」
慧子「え……? 小娘?」
穢麻呂「何じゃ」
慧子「こむすめ?」
穢麻呂「単語以外喋ろ」
慧子「コムスメ?」
穢麻呂「どこの部族だ」
慧子「この姿が見えるの?」
穢麻呂「出来れば消えてほしいところぞ」
慧子「私のこと、人の姿に見えるの?」
呆然としている慧子。
穢麻呂、ため息をつくと神棚から鏡を取って慧子に向ける。
鏡にはのっぺりとした、貧相な、これまた誰の記憶にも残りそうもない女の顔が映っていた。
鬼ではない、ただの女の顔。
慧子にはそれだけで十分だった。
これこそが現実だというだけで十分だった。
ただ、左のまなじりから頬にかけて梵字のような赤い紋様が刻まれていたのだが、そしてその紋様こそが呪いの証でもあるのだが、今の慧子は何ら気に止めること無く、泣いた。
ぐじぐじと、しくしくと。
(つづく)