ココロ②
「どうしても大学には行きたくないのね」
母は静かな口調で私に問いました。
「うん」
「 働くのね?」
「うん」
「 一人暮らし、するのね?」
「……。うん」
「……。分かったわ」
「……。うん?」
「いいわよ、好きにしなさい。その代わり一人暮らしだけは約束してね」
母と契約を交わしたような気持ちでした。私との関わりを急にシャットアウトされたかのような。母は黙って皿を洗っています。今度は母が私に背を向けるようになりました。ただ、食器のこすれる音と、水が流れる音が鮮明に聴こえて、母は居なくなったのではないかと思うほどでした。
そんなこともあってか、私の高校での卒業式に母の姿はありませんでした。それどころか、面談の時も、高校の行事の時も、母の姿はありませんでした。私自身、母が見えなくなっていたのかもしれません。そうなった頃には母と一緒に暮らそうなんて考えは微塵もなく、どんなことがあっても母とは関わらないであろうと思っていました。私のことが嫌いなのだから、一緒に居てもお互いに悪い影響しか与えないだろうと考え、あまり家にも帰らなくなりました。それでも、卒業式の後、一人で家に帰るのは少し寂しいことなのかもしれないとも思い、式中は別の涙を流しました。
そんな私のことを認めてくれた人がいました。私にもどうやら青春というものは人並みにあるようで、高校生活中に彼氏と呼べる人物が現れたのです。しかもその彼はとても誠実で、優しい彼氏で、高校の中では結構有名な方だというような彼氏でした。彼の良からぬ噂なども耳にしたことはありましたが、そんな噂なんて吹き飛ばすくらい彼は良い人でした。
彼と付き合い、手を握っていくうちに、私の彼への愛はもっと深まり、彼もそれに応えてくれるかのように高校を卒業したら結婚しようとまでも言ってくれたのです。こんなに幸せなことは本当に存在するのでしょうか?母に疎まれていると気づいてからは余計に私は彼にのめり込み、とても自然な成り行きで、私は彼を受け止めました。青春と愛のおかげで、私は何も見えず聞こえず考えず、彼のことだけを感じて、彼のことだけで満たされることができたのです。
卒業式が終わり、卒業証書を抱きしめながら、ぼんやりと歩いている時、そうだ、私が今胸に抱えるべきものは卒業証書でもなく、母への寂しさでもなく、彼の深い愛情だと思い出し、私は駆け足で彼の元へ向かいました。なるべく汗をかかないように。少し小走りになりながら。彼が視界に入った途端、私は急いで前髪を整えながらゆっくりと歩き、深く息を吐きながら、彼の胸に飛び込みました。彼は驚いた表情で私を見たあと、そっと私の背中へ腕を回して、優しく抱きしめてくれました。嬉しかった。そうだ、私は何か勘違いをしていて、将来同窓会で周りに見せる予定の娘の写真なんかは彼と私との子どもだったんだ。やっぱり私の人生設計は狂ってはいないし、大学に進学なんかしなくて良かった。
私の口は流れるように動きました。
「結婚しよう。私卒業式まで待ってたよ」
どれだけ赤面していたでしょうか。どれだけ鼓動が高鳴ったでしょうか。どれだけ喉が乾いたでしょうか。
「ごめん。俺彼女いるんだ。お前のことは本気じゃなかったんだ」
彼は私の思っていた言葉とは真逆の言葉を私にうちつけてきました。私はまだ彼の腕の中。彼の腕は私の背中に触れたまま。悪い冗談を言っているんだわ、こんなのは違う。おかしい。
「ごめん。彼女いるから。ごめん」
私の身体の中から血管が徐々に冷たくなって、頭が砕けてしまったような衝撃で、それと同時に彼の腕が私から離れて、彼の体温まで離れていって……。
どれだけ青ざめていたでしょうか。どれだけ耳鳴りの主張が激しくなったのでしょうか。どれだけ喉が乾いたでしょうか。
「妊娠したの」
彼を離したくない。離れてほしくない。
「妊娠したの」
彼はどんどん遠ざかっていく。私の声は届かない。
「妊娠、したの!!!!」
涙と共に叫びました。行かないで、置いてかないで。勿論嘘です。妊娠なんてしていません。ただ、妊娠したと言ったら責任をとってくれると思ったから、その言葉しか出てこなかっただけ。
いくら呼びかけても彼は返事をせず、そのままどこかに行ってしまいました。気持ち悪い虫を見るような目で私を見てから。
卒業証書と虚しさだけを抱えて、帰り道のドラッグストアで妊娠検査薬を買って、そのまま近くのトイレで紙袋をビリビリ破りました。まだ間に合う。もし、検査薬を使って、もし希望の結果だったら、まだ走っていったら追いつく。まだ、まだ?
やはり私は妊娠していませんでした。私にはなんにも無かったようでした。