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京都魔界めぐり その7 東寺・羅城門跡

最終日は平日。なので朝食会場はゆったり。午後早めの新幹線で帰宅するのでホテルから歩いて行ける東寺や羅城門跡へ。

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東寺 https://toji.or.jp/ 
建立は796年。平安京の遷都は794年。

実は私、この京都行きまで東寺の存在を知らなかったのです。そりゃ仏教への興味は薄いのですが、我ながら信じられない。。。そして東寺があるなら西寺はと思ったら今は跡しかないというのも初めて知りました。

で、東寺のHPによりますと、唯一残る平安京の遺構で1994年に世界遺産に登録されています。平安京遷都の1200年後に世界遺産登録されたんですね。

以下HPより抜粋。

延暦13年、794年。桓武天皇により築かれた平安京は、時代の最先端をゆく都市でした。
都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏(だいだいり)がありました。その羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが、東寺と西寺です。
東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺でした。緑色をした緑釉瓦りょくゆうがわらに朱の柱、白壁の大伽藍だいがらんは、新しい首都を象徴するものでした。

簡易で書いた地図通り。

京都.031

東寺の正式名称は教王護国寺。

東寺・西寺の創建は桓武天皇ですが、今回の旅でよく登場する52代嵯峨天皇が東寺を空海に、西寺を守敏(しゅびん)にそれぞれ託しました。東寺は日本ではじめての真言密教道場として発展、西寺は全国の寺院や僧尼を管理する僧綱所(そうごうしょ)が置かれ、天皇の国忌(こき 天皇や母后などの命日)を行う官寺として発展しました。

当時は官寺だった西寺の方が東寺よりステータスは上だったようで、そのせいもあってなのか空海と守敏は共にライバル意識が強かったそうです。それを利用してか、雨が降らず困っていた朝廷は53代淳和天皇の勅命で824年、空海と守敏に雨乞い対決をさせることに。

守敏は西寺で祈祷するも雨はほとんど降らず。空海が神泉苑(二条城の南にある真言宗の寺院)の龍神池にある祠で祈祷をしたところ、激しい雨が振り出し、池の中から金色の龍、善女龍王(ぜんにょりゅうおう 雨乞いの対象である竜王のうちの一尊)が現れたとのことで、軍配は空海に。(神泉苑の伝説)

東寺と西寺のその後ですが、西寺は990年に落雷が元で焼失、この時は再建されました。さらに時は流れ、貴族の時代から武士が躍進する時代となり、東寺・西寺ともに衰退していきます。東寺はそこから復活し、現代まで存続しますが、西寺は1233年に残っていた五重塔が焼失し、以後再建されることはなく、現在は西寺跡として文化庁が史跡に指定しています。

昨年10月に西寺跡で中心建物の講堂跡の基壇や五重塔とみられる建物跡が見つかったとのことで、西寺の解明がまた進みそうですね。
京都新聞 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/53005

魔界の観点?から空海を見てみると、空海は仏教の中でも呪術的要素の強い密教を唐で学び、806年、日本に帰国しました。当時、桓武天皇は旧勢力の南都の仏教を嫌い平安京には東寺と西寺しか置きませんでした。が、新興の仏教には怨霊を鎮める呪力を期待して、好意的でした。806年に桓武天皇は崩御しますが、その後も方針は変わらず、809年に嵯峨天皇は空海を乙訓寺の別当(大寺院の長官)に任命しました。乙訓寺は長岡京遷都を破棄するきっかけとなった桓武天皇の弟、早良親王が配流前に幽閉されたお寺です。(平安京についてはその2で)その後、乙訓寺は怨霊が宿るとして荒廃していましたが、空海によって真言宗の寺院として甦りました。


今回東寺の建物内には入らず外から見ただけですが、境内は広く、中を歩くだけでもいいところです。

慶賀門
京都駅から一番近い門で入るとすぐに駐車場があります。

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御影堂

空海(弘法大師)はここに住房を構えていたそうです。今でも空海がいた頃と同じように一の膳、二の膳、お茶を出しているとHPに書いてあります。

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残念ながら2019年12月まで工事中でした。現在は完成してるはず。

宝蔵
空海が唐から持ち帰った寺宝を納めていたそうです。現在使われている瓦の多くは平安時代のものだそうです。

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金堂
東寺の本堂。創建時、最初に工事が始められたのがこの本堂だそうです。1486年に焼失し、現在の建物は関ヶ原の合戦(1600年)後に再建されたもの。こちらは建物の裏ですね。

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こちらが表側(多分)。

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八幡社殿
796年に創建。平安京と東寺を守護するためにまつられました。810年の薬子の変(現在の研究では平城太上天皇の乱)では嵯峨天皇がこの社で空海に戦勝祈願をさせて、勝利したことから戦勝祈願の社になり、南北朝時代には足利尊氏が東寺に本陣を置き、ここで戦勝祈願を行って神殿から流鏑(かぶらや)が新田義貞勢に向かって飛び、勝利を収めたという逸話があります。
1868年に焼失し、1991年に再建されました。

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八島社殿
(手前)
八島社殿はこちらの看板によると日本を大八洲瑞穂国(おおやしまみづほのくに)というところから起こった社号。東寺以前より鎮座されており、地主神とも、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)とも言われるそうです。

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五重塔
八島社殿の後ろに見えるのが五重塔。東寺の五重塔は高さ約55m、木造の建築物としては日本一の高さだそう。この写真だと高く感じませんが、目の前にすると高かったです。。

五重塔はブッダの遺骨を安置するストゥーパ(サンスクリット語)が起源で仏塔のこと。身近なところではお墓にある卒塔婆(そとうば)もストゥーパに由来するそうです。仏塔は日本では五重塔・三重塔・多宝塔として建てられましたが、仏教の伝播と共に各地(各国)に様々な形で存在しています。こちらの五重塔の中には空海が唐から持ち帰った仏舎利(釈迦の骨やそれに替わるもの)があるそうです。五重塔の内部は春と秋の特別公開期間中に1週間ほどは公開があるそうですが、仏舎利の中は無理ですよね。

南大門 
こちらが正門。

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次は羅城門の跡へ。

羅城門跡
東寺の南大門から外に出て九条通りを6分ほど歩くと羅城門跡があります。今では小さな公園の中に記念碑が建っているだけですが、ここが平安京創建時、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関にあたる正門で、この門を境に都の内外を分けていました。

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AR西寺・羅城門WEBサイトより

羅城(らじょう)とは,古代都市を取り囲む城壁のことで,羅城門は羅城に開かれた門です。中国では外敵防禦のため堅固な羅城が築かれましたが,日本では藤原京以来,京城の南面の羅城門の両翼のみに造られただけで,周囲には簡単な垣(土塁)と溝が設けられていたようです。

当時の朝廷は中国と違い脅かされる異民族が存在しなかったので防衛のための強固な門は不要でそれより怨霊が入らないほうが大事でした。。。

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そして、記念碑の説明文によれば、

816年に大風で倒壊して、再建されるも980年の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることはなかった。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記」(公卿藤原実資の日記)にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。

羅城門が崩れたのはもう少し後の武家が躍進してくる院政後期くらいかと思っていましたが、摂関政治の頃にはもう門自体はなかった。藤原氏全盛時代だから再建できたと思うのですが、もう国自体に関わる怨霊とは無縁だったって事なんでしょうね。

矢取地蔵尊
羅城門跡のすぐ近くにあった矢取地蔵尊。こちらの石像は右肩に矢傷の跡が残っていて、左手に宝珠、右手に錫杖、矢を持っているとか。

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京都市の説明書きには神泉苑の伝説の後日談が書かれてました。空海の祈祷により雨が降ったことで守敏は空海を恨み、空海を羅城門近くで待ち伏せして矢を射かけたところ、一人の黒衣の僧が現れて、空海の身代わりとなって矢を受けたため空海は難を逃れました。身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩の化身でその後の人々はこの身代わり地蔵を矢取の地蔵と呼び、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊を建立し、長く敬ってきたとのこと。守敏はすっかり悪役。

AR西寺・羅城門アプリは今は見る事が出来ない西寺と羅城門、朱雀大路が目の前に存在しているかのような体験がCGでできるそう。現地でどうぞ。

そろそろ帰り時間が近づいてきたのでホテルへ戻る前に初日から気になっていた西洞院通り沿いにある記念碑を見に行きました。滞在したホテルのお向かいの京湯元ハトヤ瑞鳳閣の敷地内。

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新撰組最後の洛中邸跡の碑

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こちらの記念碑によりますと、この地域は古代の表記では平安京左京八条二坊十五町にあたり、中世には八条院町と呼ばれる工業地帯でしたが、戦国時代に農村化。しかし、豊臣期に構築された御土居堀(おどいぼり 京都全域を囲い込む城壁・環壕)の郭内に位置していたため「洛中」(都市)扱いを受けたとあります。また、ここは幕末、最盛期の新撰組の屋敷があったそうですが、厳密な場所や規模、建物構造については信用できる史料が少なく不明とのことです。鳥羽・伏見の戦いの敗北し、新撰組は撤退し、解体。この屋敷は早々に焼失し、静かな農村に戻ったのではないかとあります。


今回の京都魔界めぐりの旅はこれで終了です。当初魔界には興味がなかった私ですが、旅行後に写真・本・ネットを使って書いてみたら平安時代の天皇とその周囲に興味が湧いてきましたので次回はもう少し旅行前に調べてから夫と二人で京都の魔界に再度足を運びたいと思っています。

魔界の参考資料
重ね地図で読み解く京都の「魔界」 小松和彦監修
京都「魔界」探訪 花房観音監修
その他ネットの情報にもお世話になりました。

ありがとうございました。

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