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鬱病でした。part.4

こんにちは、フクダリセです。
沢山の身の回りの方がnoteを読んでくださっているようで、恥ずかしいやら、嬉しいやら、なんだか複雑な心境です。
先日、知り合いの方から、「part.4楽しみにしとるよ!」という声をいただきました。嬉しい限りです。

前回書いたとおり、自己満足のために書いてる訳じゃない。
「誰かの何かに届いて変化するものがあってほしい」そういう思いで書いています。だから、私のnoteは、読む人がいて、その人がその人なりのフィードバックがあってこそのものなんです。
私のnoteから、読んだ人や世の中に対して何か変化があれば幸いです。

※↓前回Part.3です。

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さて、前回は弟の話を書くと記述しました。
私が家族から孤立するなか、弟はというと、なかなか賢い手段をとっていました。毎日のように、お姉ちゃんがお母さんから怒られている。そんな、様子を横目に、弟は家庭の中で居場所を確立していました。
母も末っ子ということで、弟には甘かった。
その立場を思う存分に利用していた。

父と一緒に家を出て行った兄。
母の浮気の証拠も父と一緒に集めていた。母からしたら、敵。
家にいた時もよく兄と母は衝突していた。母と喧嘩して、
「寝込み気をつけろよ!殺してやるから。」と兄が叫んだ夜もありました。私は、反抗期だろうとのんびり考えていた。

家庭環境が変わり、母が私を目の敵のように接する日々。
私が家族と衝突し、孤立していく日々。
弟からしたら、もちろん母側についたほうが、有益。
怒られる対象より、可愛がられる対象に。
弟からは、そういう思いが感じられた。

だから、弟はよく母の機嫌をとり、母に懐き、母から可愛がられていた。
私とは対照的に、母が弟を怒るときは、ほぼ無かった。

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なんでこんなことになったんだろう。私、何か悪いことした?

最初は自分が置かれている状況が訳分からなかった。

なんで?
両親が離婚したから?
私、それについては何も文句言ったことない。離婚の原因の一つである、母の浮気についても、文句いったことない。逆に、恋に年齢なんて関係ないんだぁ、40代になっても恋ってできるもんなんだぁ、とワクワクした覚えがある。

私が父に似ているから?
それはどうしようもない。似たくて似ている訳じゃない。そもそも、似ているかどうかなんて、私が判断できるものじゃない。父という人間をひとりの人間として見る前に、父とは別の生活になったから。

離婚したから、父と似ているから。そんな理由じゃない。
私がこの家庭に生まれてきたからだ。生まれてこなければ、こんな辛い思いしなくてすんだ。普通の家庭がよかった。
大切な人は誰?って聞かれて、何も特に考えず、家族ですって答えれるような、そんな人になりたかった。
『家族は大切なものだ』そんな世間の一般常識からはみ出さず、疑問を感じず、世間の長いものに巻かれる人生がよかった。

将来、「最も尊敬しているのは、父です。」っていう人や、結婚式のときに、「お母さん、生んでくれてありがとう」って涙ぐむ花嫁になる自信がない。

私にとって家族は、「ただ血が繋がっているってだけの同居人。」という感覚だった。家族愛とか、考えだしたら気が狂いそうだった。
家族愛なるものが存在しているのなら、私が今置かれている状況は何?

『家族』という関係だってだけで、無条件に愛するなんてできなかった。
生まれたくて、こんなところに生まれたわけじゃない。私が選んだわけじゃない。こんな家庭にさえ生まれてこなければ辛い思いなんてせず、幸せになれたのに、そういう思いでいっぱいだった。

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きっと、読んでいて、私に対して嫌悪感がうまれる人もいるだろう。
「今まで育ててもらったのに、何を言っているんだ。」と。

確かにそうです。嫌な思いさせてすみません。私はまだ誰かの親じゃないから、想像することしかできないけれど、親が私にかけた時間や労力はとても大きいものなのだろう。

私はpart.2でも少し書いた通り、私はあのころ自分のことが大切に思ってなかった。自分のことが嫌いだった。価値のある存在だと思っていなかった。生まれなきゃよかったと思っていた。
自分にある程度の自信や価値を感じて、人はそのように、「育ててくれてありがとう」という思いが生まれるのだろう。私にはそのような感謝はなかった。むしろ、こんな仕打ちをするのなら、生んでくれなくてよかったのに。
と、思っていた。

今は当時ほどじゃないけれど、感謝しているか?と聞かれれば微妙なところだ。当時を、-10とするなら、今は3ぐらいかな。感謝まではいかないけれど、私には大事な人が周りに沢山いるから、生まれてこなきゃよかったとは思っていない。私は結婚願望無いけれど、誰かの親になったら、親に感謝できる日がくるのかなぁ。

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母と毎日のように衝突すると書きました。理由はいつも大したことじゃない。話していたら気づいたら喧嘩になってる。
会話が喧嘩、喧嘩が会話、みたいなものでした。うまく意思疎通ができなかった。
母からしたら、私の存在そのものが父のようにみえていた。私と父とを重ね合わせ、私と接する時は父に対する嫌悪感が反映されていた。だから、私を責めるのも理不尽な理由だったし、言葉も棘があった。私もそんな母が大嫌いだったし、そんな理不尽が許せなかった。

母と喧嘩したり、祖母の家から追い出されるときは、決まって自分の部屋に行った。そこだけが数少ない、私がいてもいい場所だった。
喧嘩すると、いつも母に対する怒りや失望感、自分の環境に対する絶望感、劣等感、自分への嫌悪感に苛まれた。そういう思いでいっぱいで、
いつも決まって過呼吸になった。でも、母に過呼吸のことをばれたくはなかったから、どんなに辛くても物音立てなかった。泣くのも声をあげて泣かなかった。だから、私は今でも泣くときは声を出さない、出せない。
もう、そんな泣き方が身体に染み込んでるみたいだ。

夜、喧嘩して、部屋に行って、過呼吸になる。それが大体のお決まりのパターンだった。どのくらいの頻度でそうなるのか、数えたことがる。
そのパターンがあった日にスケジュール帳にチェックをつけていった。
大体、週に4,5回。ほぼ毎日だった。多い時は、10日連続チェックがついたこともあった。
だから、過呼吸も回数こなしていくと、だんだん自分でコントロールできるようになる。自分で止めようと思ったときに止めれる。
(なるのは、流石にコントロールできなかった。自分を牽制しようとしても思いがあふれ出して、できなかった。その場合止めるより逆になったほうが楽だった。)
過呼吸は長い時間なっていると、気絶し、最悪の場合死に至るらしい。
「どうしようかなぁ、止めようと思えば止めれるけれど、このまま死んじゃうのもありだなぁ」そんなこと考えながら、部屋で一人夜を過ごしていた。
酸素が頭に回らなくなっているから、思考回路もぼんやりしていた。
ただただ苦しい死にたいという思いでいっぱいだった。

いつも大体、気づいたら寝てたみたいで、死ぬことなく新しい朝がきた。
目は泣きはらしているし、顔もむくんでいる。
でも、当時は学校友達といるときぐらいしか楽しくなかったから、学校へ行った。とにかく、家にいたくなかった。

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過呼吸のことは母に話したことはないから、きっと今も私がそんな夜を過ごしていたことは知らないはず。

私が母の前で過呼吸になったのは、一回だけ。父と母の関係が悪化していき、離婚するのが目に見えていた時期。母との確執もなかった時。
夜寝る前に過呼吸になりました。それが人生で初めてなった過呼吸。
母はとても心配して焦っていた。
夏ということもあって熱中症の可能性と、家の中のそんな雰囲気にストレスを感じている可能性があると母は言っていた。家庭が理由の一つかもしれないということに関して母はとても辛そうだった。

そのときの記憶があるから、母に心配かけたくなかったのかも知れない。
いずれにしても、どんな時も泣き声を押し殺していた。夜は特に音が響く。祖母の家で祖母が大きなくしゃみをすると、私の部屋まで聞こえてくるぐらいだった。遠く離れた電車の音が風に乗って聞こえてくるぐらいだった。

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part.4いかがでしたか?
今までと比べて重い内容になっちゃったかもしれないですね。
みなさんは過呼吸なったことありますか?
「話でしか聞いたことない」って方は過呼吸に対してどんな印象をもっているのでしょうか。精神にかなりのストレスがかかっている証拠らしいので、みなさんも気をつけてくださいね。私でよければ、いつでも力になりますので。

part.4読んだ感想をまたぜひ聞かせていただきたいです。
読んでいただきありがとうございました。

では、また。

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※↓Part.5です。


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