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1人の女性がエンジニアになるまで〜りさきゃんの場合〜

wirohaさんが書いた記事をみて私もエンジニアになるまでを書いてみることにしました。といっても私は活躍しているエンジニアではないです。得意なことなにもないけどどういうわけか開発者として働けているような人間です。ほとんど、運です。それでも一つのサンプルになればいいなと思ってこの記事を公開します。

おなじくエンジニアのりほやんとポッドキャストをしていて、その1話目でも似たような話をしているので、興味があれば合わせて聴いてみてください。

誕生

1991年7月に福岡県福岡市に生まれました。母はワープロを教える仕事をしていて、同じ会社の営業だった父と出会い、結婚して私が生まれました。次の年に、妹が生まれました。

最初のコンピューターとの記憶は、父の書斎に置いてあった PC です。リビングブックス「おじいちゃんとぼくと」をプレイしていました。いわゆるクリックゲームで、何度も繰り返し遊んでいました。

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幼稚園

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幼稚園に通っていました。幼稚園には制服があり、女の子はスカート、男の子はズボンでした。年長さんくらいになると、スカートめくりをされるようになりました。ときには男の子二人がかりでスカートめくりをされることもありました。とても嫌でした。反撃もできなくてとても悔しかったです。この頃から、「女の子っぽく見られたくない」と思うようになりました。この気持ちは少しずつ育っていき、小学校時代は全くスカートを履かずに過ごしました。

小学校

本を読むことが好きでした。福岡市総合図書館 に連れて行ってもらい、こども図書館という靴を脱いで読書ができるスペースでもくもくと本を読んでいました。

2年生の秋ごろ、父の転勤をきっかけに、福岡から東京に移り住みます。

父が会社から知育ゲームのサンプル CD-ROM を持ってきてくれてたので、引き続きパソコンでゲームをしていました。それ以外の据え置き型のゲームは「頭がバカになる」といわれて買ってもらえませんでした。

インターネットは、福岡時代にはすでに父が家で使っていて、夜中から早朝にかけて何かをしていた記憶があります。私が自由に使えるようになったのは小学4年生くらいだったと思います。「インターネットの契約プランを変更したから、使いたかったら使っていいよ」という感じでした。

英会話を始めたのもこの頃でした。ハリー・ポッターにハマりすぎて、原書を読んでみたいという思いから、地元の英会話教室に通い始めました。

学校での成績はほとんど 5 でした。体育と算数は苦手でした。女の子っぽく見られたくないという気持ちがあってスカートははきませんでした。汚い言葉もわざと使っていました。それでもクラスのみんなは仲良くしてくれていました。

高学年になると、自分のウェブサイト上で同年代の子と交流するようになりました。最初はお絵かきBBS というブラウザ上で絵を書いて投稿する掲示板にはまっていて、一緒にハマっていた友だちにウェブサイトは自分で作れるよと教えてもらったのが始まりでした。父が会社からウェブサイト作成用のソフトウェアを持ってきてくれたのでそれで HTML を書き、 HTML ファイルをアップロードする形でサイトを運営していました。いわゆるキラキラサイトを作っていました。サイトのメインになる画像をフォトショップで作成し、 iframe タグで日記を書いたり、読んだ本のレビューを載せたりしていました。

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0574 というウェブサイトランキングサイトで 1991年7月生まれのランキングの 3 ~ 7 位をうろうろし、同年代の女子の作ったウェブサイトを巡っていました。おそらくここらへんでりほやんとすれ違っています。

中学校

小学校の隣に中学校があったので、同級生はほぼ同じメンバーでした。いわゆる不良っぽい子は学年に1~2 人だけだったし、その子たちも、とてもいい子でした。ケータイを持っている子が多かったけど、うちはだめだったので、友達とのやりとりは電話かパソコンでのメールでした。

相変わらずインターネットに夢中でした。ほかには音楽にハマり、宇多田ヒカル、Queen、東京事変、ポルノグラフィティ、BUMP OF CHICKEN の CD を友達と貸し借りして、感想をヤフーメールで言い合っていました。

成績は相変わらず体育と数学以外はよかったです。体育と数学はどれだけ頑張っても 4 でした。数学はどれだけ準備しても100点が取れませんでした。化学の授業では「あぶない液体だから注意して」っていわれてた実験中に塩酸をぶちまけました。とにかく化学とか数学とかは無理、体育も絶対向いてない、と思いました。

美術の先生がとんでもなくえこひいきする上「俺は子供が嫌いだ。なぜなら〜・・・」という話を授業でし始めたので、「ちゃんと授業をしてください」という抗議の手紙を書いて校長に直訴したりしました。

家の近くで英語を習い始めたところ、英語がぐんと話せるようになり、さらに、その先生と親友になりました。中学生のうちに英検準2級を取得しました。小学校のころから続けていた英会話が週に1回プラス、その先生との授業が週に2回あったりして、英語漬けっぽい日々を過ごしていましたが、全て楽しかったので苦ではありませんでした。また、年に2回ほど、国連大学の留学生と一橋大学の交流学生がショートホームステイに来ていたので、その機会に英語でコミュニケーションする楽しさを知りました。ホームステイに来てくれた学生とはメールアドレスを交換したり Facebook のフレンドになったりして、交流が続くこともありました。

全体的には成績がよかったので地元の進学校をおすすめされて、そのまま進学しました。

高校

地元の都立高校に入学しました。同じ部活に入った、東京事変好きのかすみちゃんYahooメッセンジャーを通してとても仲良くなりました。私は1組、かすみちゃんは8組。授業の合間の休み時間におしゃべりに行こうとするととても遠かったので、ずっとケータイのメッセージでやりとりをしていました。私はSoftBank、かすみちゃんは Docomo のケータイを使っていました。かすみちゃんが「ツルッとしてないハートの絵文字のほうが可愛い」と言っていたので、彼女の携帯で「ツルッとしてないハートの絵文字」になるように、彼女あてのメッセージでは(SoftBank で見るとあまり可愛くない)「トランプのハート」を使うなど、絵文字にこだわり始めます。学校が忙しく、インターネットで知らない人と交流する機会は減っていきました。その代わりに、 mixi 前略プロフィール でオンラインでも学校の友だちとつながっていました。軽音部でバンドをやって部室でグダったり、ギターの練習もちゃんとしなかったのに選曲がうまく行って後夜祭で演奏したり、コピーバンドバトルで優勝したりしました。選曲以外にわたしが貢献したことはなかったです。ただ、音楽に夢中になっていました。また、Zipper などの雑誌を読み、吉祥寺でお洋服を買い始めました。この頃になってようやくスカートを履き始めました。

数学は苦手な教科になりました。数B のベクトルの試験で人生初の赤点を取りました。化学、物理、生物、どれも苦手でした。英会話はやめていたけど、英語はそこそこできました。

文理選択

高校3年生になると、文理選択があり、授業が単位制になります。理系の教科が全部ダメだったので、理系はもちろん選択肢から外れました。文系だけど、経済や政治には全く興味がありませんでした。自分に向いていることや、やりたいことが、思いつきませんでした。ただ、海外の文化や小物(アンティークなものや、インテリア雑貨など)を見るのが好きだなぁという気持ちがありました。国立や吉祥寺の雑貨屋をめぐるのが好きでした。そして、海外に興味があって、学費の安い公立の大学にするなら東京外国語大学かなー、と思いはじめます。同大学で、倍率が高すぎず、かつ、他の人がやっていないことをしたいというひねくれ者だったため、日本で唯一専攻できた「チェコ語」への出願を決めて勉強しました。同時期にニコニコ動画で出会ったシュールレアリスムアーティスト、ヤン・シュヴァンクマイエルの出身地であったというのも理由の一つです。アートは、熱中するほどではないけど、好きでした。

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▲ 軽音部の後輩たちがお祝いしてくれた。ひねくれているので袴は着ず、クラスメイトのお母さんに借りた古着のワンピースとネックレスを着用。photo by my friend

大学

けっこうぎりぎりな成績でチェコ語科に入学しました。1クラスたったの16名。そのうち15名が女子という特殊な環境でした。唯一の男子は姉妹がいたので、そんなに気まずい感じではなかったと思います。大学も7:3で女性が多かったです。大学時代はずっとマインクラフトにハマっていました。初めてのアルバイトをして、数ヶ月お金をためては、海外旅行に行き始めました。ロンドン、プラハ、パリ。 学校行事もそこそこやりましたが、これまでの人生史上最も性格が悪く、クラスメイトに迷惑を掛けました。いまでも仲良くしてくれている子たちにとても感謝しています。

3年生のときに1年間休学して、プラハに留学しました。クラスメイトの半数も一緒に行ったし、そのころには Twitter で高校の友だちとつながっていたので、寂しさとかはなかったです。留学中もほぼ日本の大学のクラスのみんなと過ごしました。チェコ語のクラスで、スロヴェニア、リトアニア、ポーランド、ロシア出身の友人もできました。ヨーロッパの国々を夜行バスで旅行して回りました。この経験はとても貴重だったと思います。ショートホームステイに来てくれていた学生の家族を訪問したり、留学生として日本に来ていた子に会いに行ったりしました。最後の大量虐殺が行われたスレブレニツァまで旅をしたのもこの留学中のできごとでした。これらの旅の経験はいまもふと思い出します。

留学中、毎週火曜日は、Lang-8 で知り合った初めてのチェコ人の友達とランチをしておしゃべりをしました。その子はベジタリアンだったので、ベジタリアンレストランで食事をしていました。私はベジタリアンにならなかったけど、日本人の子がベジタリアンになったりして、いろいろな考え方の人がいるんだなぁと思いました。

海外で生活するなかで、言語よりも笑顔の方が気持ちを伝えられるということに気づき、(敵意がないことを伝えられるということに気づき)、知らない人に笑いかけられるようになりました。

バスに乗っている時、チェコ語で「中国人!韓国人!」とやじを飛ばされたこともありましたが、チェコ語で「いや、私は日本人だから。」というと、驚いて「なんでチェコ語を話せるの?」と話が続き、別れ際には笑顔で手を振って別れたり。

ショッキングなことも起きました。仲良しグループのメンバー、8ヶ国語が話せたフランス人のエルワンが、お誕生日の日にバーに行き、酔っ払って公園を歩いていたところ、公園内の線路内に倒れてしまいそのまま電車で轢かれてしまうという、辛い事件が起きました。私たちはエルワンの最後の友達としてエルワンのご両親に会いました。身近な友達を亡くしたのはこれが初めてでした。彼の Facebook のページは当時のまま残っています。エルワンのために木を買い、プラハの北にある森に植えました。

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photo by @joyceshoots

就活

留学も終わり、就活が始まりました。大学名が有名なので就職説明会に来るのが大企業ばかりでした。とくに入りたい会社もなかったので、そういう会社に片っ端から応募していました。志もなく、クラブ活動もせず、ボランティアもしていなかったので、通るわけがありませんでした。ただ、大学名だけで書類は通ってしまったので、面接で落ちました。話し始めた途端、急にお客様対応になられて、落ちたな、恥ずかしいなという気持ちを抱いてとぼとぼ帰宅する毎日でした。書類で落としてくれたら良かったのにと本当に思います。就活から帰宅する途中で大雪がふり電車が停まり、一晩、リクルートスーツのまま、車内でたちっぱなしで過ごしたこともありました。辛かったです。最終的に、ぎりぎり旅行会社の受付の内定をもらいましたが、事前の説明会に出席したときに「これは無理な雰囲気・・・」と感じ、「もうここ以外だったらどこでもいいからもう一度就活しよう」と決意しました。夏直前。普通ならみんなもう内定を決めて遊んでいる時期でした。

ここでもう一度、自分が毎日やって飽きていない唯一のものを考えてみました。そうして、「インターネット・パソコン」系も良さそうじゃないかという選択肢が生まれました。エージェントがついてくれる就活サービスに登録し、ひたすら「IT系」とついた職種を眺めていきました。そこで、「入社後に部署を自分で選択可能」と書いてあった会社に、とりあえず「営業志望」として応募します。運良くトントン拍子で書類通過し、最終面接を受け、その日の帰り際に合格ですと告げられました。めちゃくちゃ嬉しくて、泣きました。

単位も必要数ピッタリ取得して、無事大学を卒業しました。

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photo by Rina

新卒時代

入社した会社には10人の同期がいました。女の子は私を含めて4名でした。まず外部研修でインターネットについての基礎的な知識を学び、そのあと全部署の仕事を1〜2日体験後、自分の入りたい部署を人事に伝えることになっていました。私はお客様対応をする部署の先輩に気に入られて、ランチをおごってもらったりかなり勧誘をされました。でも、私が一番楽しいとおもったのは開発の部署でした。開発の部署の課題は、「Ruby というプログラミング言語を使って、 Slack 上で動く bot を作ろう」というものでした。入社年度が2つ上の男の先輩がつきっきりで教えてくれて、 Ruboty という Gem を使って bot を作りました。プログラム自体は簡単なもので、「文字を取得して、内容が条件にあてはまったら、なにかを返す」というものでした。サンプルとしておみくじの実装が書かれていました。各々がサンプルの実装を組み終わった後は、プログラムをちょっと変えて、オリジナルの実装を追加しようということになりました。 Slack というチャットツールを使ったのは初めてでしたが、絵文字コードを入れれば、絵文字を簡単に入れられるのがよいなと思いました。 :tada: はすぐ覚えて、その二日間でたくさん使いました。そして、サンプルのおみくじ実装で使っていた「ランダムに文字列を表示する」部分の文字列を絵文字コードに置き換えて、「@bot お腹すいた」と書いたら、「つ 🍰」とおやつを返してくれる機能を実装しました。絵文字を使ったアイディアがめずらしかったようで、開発の部署の社員さんたちが褒めてくれました。先輩はマージリクエストをしてくれて、「お腹すいた」だけじゃなく、「お腹が減った」「お腹がすいた」「はらへ」など、他のことばにも対応できるようにしてくれました。プログラミングが楽しかったこと、他の人と協力して自分のコードがもっとよくなったことがすごく嬉しかったです。

でも、もちろんその経験だけで、開発の部署に入るという勇気はありませんでした。全部署の体験が終わった後、2部署だけ1日ずつ再体験ができたのですが、私は「お客様対応」と「営業」を選びました。楽しくありませんでした。配属希望を伝える前日に、開発の部署の体験を企画してくれた先輩に相談し「もし開発に入ってくれたら責任持って育てるよ」と約束してもらいました。人事に希望を伝える前日の夜は、それまでなかったほど心臓がバクバクしました。ほんとうに人事に呼ばれる直前まで悩んでいましたが、ほんとうに、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、人事に「開発に入ります。チューター(半年間つきっきりで業務を教えてくれる人)は、この部署体験を企画した先輩にしてください。」とお願いしました。私も先輩もやる気にみなぎっていました。

私は開発の部署にはいりました。24歳でした。もちろん何をするか何もわかってません。先輩は、エンジニアになるために読むべき本のリストを作成し、数冊はもう発注して用意してくれていました。HTML、CSS、Ruby、Rails Tutorial をやりました。そのあとは、「GitHub API と Elastic Search を使って、会社で使っている GitHub のコミットの内容をグラフ化する」という課題をもらい、もくもくと実装しました。もちろんオブジェクト指向など全く知らないので、上からただただ実行するプログラムをかきました。GitHub の API の利用制限に引っかかってしまう日もありました。コミットのメッセージ、粒度が分かりづらいから適切に、空白は別のコミットにする、クラスに取り出す、メモ化する、話すときは簡潔に、など、ビシバシと鍛えられました。でも全然苦じゃありませんでした。毎日新しいことを知るのが楽しかった。そのころ、 esa というドキュメントのサービスを知り、知った内容のメモを取ることを学びました。

先輩はたくさんの勉強会に連れて行ってくれました。「女の子めずらしいね」と言われました。ある勉強会に行った時、LTの発表者に「女性の方がいるとは思わなかったのであれですが、アダルト系のサイトを作っています、ふふふ。」と言われたこともありました。不快でした。こっちは真剣に技術について学びに来ているのに、「女性の方がいるとは思わなかった」という余計なことを言い、そのせいで、なぜか注目されてしまうのがいやでした。

Rails Girls と Ruby コミュニティ

▲ 右側のカウンターでこちらを向いているのが私

▲ チェコ語になった!

そのうちに、RailsGirls というイベントがあることを教えてもらいました。このイベントはプログラミング初心者の女性向けに Rails を教えるというもので、女性をエンパワメントするものだということでした。コーチは現役の Rails エンジニアがボランティアで参加するとのことでした。さっそく応募しました。どうしても行きたくて、応募時に志望動機をめちゃくちゃ熱く書いていたからか、無事当選しました。当日は本当に本当に楽しかった。同じグループにいたコーチが全員、情報系出身ではなかったこと、RailsGirls をきっかけにエンジニアに転身したかたと話したこと、Ruby や Rails を作っている (!?)ひとに i18n という gem を教えてもらって、アプリを一瞬でチェコ語に変えたこと・・・懇親会で無料で提供された美味しい料理・・・夢みたいでした。みんな優しく、ウェルカムな雰囲気に溢れていて、ここは、私が居ていいところなんだと思えた経験でした。同時に、オープンソースソフトウェアの思想を学ぶ機会にもなりました。その後は、Rails や Ruby のイベントに行くたびにコーチたちと顔見知りになり、わくわくする日が続きました。初めて参加した年一度のRubyのイベント RubyKaigi では、業務として参加する以上なにかやってこいと言われて、 Twitter上で #rubyfriends のハッシュタグを使いたくさんの Rubyist (Rubyが好きな人たち)と写真を取りました。このハッシュタグをきっかけに、たくさんのエンジニアと交流できました。国を問わず、インターネットを通じて協力しあっていいものを作り上げていくぞという文化がとても好きになりました。

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転職

このあと色々あり、数回転職をします。嫌な思いもしました。でもいまは、考えうる最高の環境で開発者として働いています。きっかけは、夫となった先輩が教えてくれたツイートでした。

当時転職を考えていて、しかもお金がなかった私は、焼き肉につられてこのフォームに応募します。「これ、めちゃくちゃいいサービスやで」という夫の言葉も後押しになりました。運良く当選して、当日ひたすらおいしい肉を食べました。焼き肉を食べ終わって店をでる時、当時の VPoE が、私がお遊びで作って販売していた「Yak Shaving」というTシャツを着ていることに気づきました。一緒に写真を撮ってもらいました。その後、ぜひ面接うけてねというメールがきて、しかもそれを放置していたのですが、1週間後に催促のメールが来たので、返事をして面接に行きました。私は使ったことないサービスだったので、そのとき初めてサービスの画面をみて、色々質問しました。話してて、少しも違和感を感じませんでした。社長も副社長も開発のことをよくわかってるし、技術の本も好きなだけ買っていいよって言われて、びっくりしました。(もちろん今と状況は違いますが。)そして、入社することになりました。私が夫から教えられた、情報をオープンにしておき、作業を俗人化させないということを当たり前にやっている人たち、さらに、その当たり前を言語化しているリーダーたち、何を言っても性別や年齢でジャッジせず聴いてくれる同僚がいました。私の前職の給料を聞かずに、給料のオファーをしてくれるのもとても嬉しかったです。それまでは自己肯定感の低さから正しい評価をくだせていませんでした。私は一人目の女性のエンジニアでしたが、嫌な思いをすることはありませんでした。発言に違和感を感じたときはそれを素直に伝えるようにしたら、みんなそれをちゃんと聴いてくれました。

技術的な話をするはずの技術イベントで女性への外見のコメントがあったとき、同僚のエンジニアは「これはだめでしょ」と反応してくれました。ある意味、女性よりもはっきりと。これはとても励みになりました。「ダメなものや、なぜダメなのかわからないときがある」と言ってくれた人もいて、嫌なことは嫌だと伝えていこうと思うきっかけになりました。

私がうつになり、3ヶ月休んで復職した今も、私に無理のないよう配慮した状態で、開発に復帰できるようにしてくれています。同僚も、前と同じように、普通に接してくれています。それがどれだけありがたいか言葉にできないです。

すごく幸せに生活しています。幸せすぎて、毎日これが人生のピークなのかもしれないと思っています。新卒で、最高の先輩、人生のメンターに出会える確率の低さよ。自分に合った(合わせてくれる)会社を見つけられた幸運も。ここまでの道のりも、大変だったけど、毎日を楽しく生きる方法を見つけました。

一方で、こんなに幸運な人ばかりでないというのもわかっています。さまざまなトラウマを抱えたまま仕事をしなければならないひと、エンジニアになりたいけどわからないひと、技術と関係ないことが壁になってしまってプログラミングに挑戦できない人がいること。そういう人たちを迷わせたくない、チャレンジを踏みとどまってしまう障壁をなくして行きたいという思いが強くあります。

ジェンダー・アイデンティティや年齢、これまでの経験を問わず、プログラミングに挑戦できる、あるいは、エンジニアを目指せる世界にしたいと思っています。そのために私ができることを、無理しない範囲でやって行けたらいいなと思っています。

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